[book] 河童が語る舞台裏おもて(1)

今夏(2013年夏)に妹尾河童さん原作の『少年H』が映画公開されるというので、懐かしくなって、『河童が語る舞台裏おもて』 (妹尾河童 文春文庫)を再読した【→1998年12月感想】。残念ながら品切れ重版未定(絶版)なので図書館か古本屋で探しましょう。新潮文庫から出ている『河童が覗いた』シリーズは健在で嬉しい。

妹尾河童さんは、1930年生まれの今年83歳。舞台美術家として知られているが、ち密な手書きイラストが掲載されたエッセイ『河童が覗いた』シリーズ、自分の少年時代をもとにした自伝的小説『少年H』など著述家としても有名で、あおきもどちらかというとエッセイストとしての妹尾河童ファンだった。

その妹尾河童さんの舞台美術家としてのらつ腕ぶりと著述家としての軽妙な文章、そしてイラストレーターとしての腕前を知ることができるのが本書。一冊で3度美味しい。

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[book] 食べる人類誌

『食べる人類誌―火の発見からファーストフードの蔓延まで』(フェリペ・フェルナンデス=アルメスト 早川書房)文庫落ちを再読【2003年9月感想】。すっかり内容を忘れていた。

本書は著者が、食べ物の歴史上で起きた大きな変化を「食べ物の革命」と定義し、人類史に影響を与えた出来事として食べ物の8つの革命について、それぞれ論考したものである。解説は、小泉武夫(東京農業大学名誉教授)で、著者フェリペ フェルナンデス=アルメストは、英国の歴史家で、人類の文明史を専門とすると紹介している。

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[book]逆転無罪の事実認定

逆転無罪の事実認定』(原田國男 勁草書房) を読んでいる。逆転無罪とは裁判で出た有罪判決が、上訴審(控訴審または上告審)で覆ること。ちなみに、宙組版『逆転裁判3』とは全く関係がないです)。

本書の対象として、編集担当された勁草書房の鈴木クニエさんは、「端っこが一般に開いた本」と仰っていますが、いろんな人に読んでほしい!めっちゃ良書!!基本は、法律関係の実務家、法科大学院生、法学部生に加えて、裁判や栽培員制度に関心がある人向けとして出版されております。

日本の刑事裁判の有罪率は 99%と言われており、ほぼ起訴=有罪である。これには「間違いなく有罪であると認められる事件だけ起訴しているから」という意見もある。

だが、本当に「間違いがない」ことがあるのだろうか?

本書は、著者が東京高裁に裁判官として勤務していた8年間に言い渡した逆転無罪のうち、20事件を紹介したものだ。構成として、Ⅰ「刑事裁判へのメッセージ」で、裁判の手続きやえん罪をふせぐための審理のあり方について語り、Ⅱ「逆転無罪の事実認定」で20事件の判決文と共に、著者が一つ一つの事件について、”なぜ逆転無罪の判決になったか”を解説している。

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[book]ヒーローを待っていても世界は変わらない

ベルばら脳からの脱出を図るため、湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版)を読み始める。

「民主主義というのは面倒くさいものだ。そして疲れるものだ。その事実を直視することから始めよう」という前書きで、おお、ヤン・ウェンリーと銀英伝脳が反応した。そういえば、銀英伝@TAKARAZUKAの感想を書いてないな。。。oO (博多座の銀英伝は、かいちゃん(七海ひろき)のオーベはどんな様子かなぁ。気になる。)

あ、いやいや(///ω///)。本題。

湯浅誠は、2008年の『年越し派遣村』の”村長”、元内閣府参与であり、ホームレスなどの生活困窮者の支援を行うNPO法人 自立生活サポートセンター・もやい事務局長として知られる。

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[book] 人権という幻

ひさびさに本の感想。
『人権という幻』(遠藤比呂通 勁草書房)は、Book asahi.comの「著者に会いたい 人権という幻 対話と尊厳の憲法学 遠藤比呂通さん」の記事を読んで、無性に読みたくなった本。手に取ってみると、シンプルな表紙とリキの入った帯がすごく「良い本」オーラを醸し出している。これは、編集者の鈴木クニエさんの力の入れようも大きいと思う。

『憲法学者10年+釜が崎弁護士10年』『「日本に憲法があるんか」という問いに答え続ける著者・遠藤、初の書き下ろし』(帯より)

著者の遠藤比呂通氏は、「1996年、36歳で東北大学法学部の助教授を辞め、その2年後に大阪・西成の労働者街「あいりん地区」(釜ケ崎)で弁護士事務所を開業した」というかた。

内容はといえば、遠藤氏が、弁護士として関わった事件を取り上げ、『法の曖昧性』と『憲法上の解釈論』を手がかりに、国家とは何か、国民とは誰かを問い続ける「憲法学の本」である

野宿のテントを強制撤去されたホームレス、夜間中学の学校運営を批判して卒業文集の作文を勝手に修正された在日韓国人女性、日の丸・君が代の強制に反対して処分された小学校教師。人間の尊厳を訴える様々な依頼人たちと出会い、憲法を実践するための対話を重ねてきた。
(著者に会いたい [文]樋口大二  [掲載]2011年11月13日)

日本は、法体系によって、国のシステムが整備されている法治国家であり、「法律」によって決められたルールに則って、物事の可否(善悪まで含まれてしまう)が判断される。
じゃあ、法律に「この場合はOK」「その場合は条件付きで一部OKね」みたいにひとつひとつの細かい判断基準が書いてあるかというと、そうでもない。というか、いちいち書いていくと膨大(!)だし、「事実は小説より奇なり」で法制定の段階では、将来的に起こるであろう事例は想像できなくて定めることができない、ことも多々ある(これを法の想定外という)。

法律によっては、「施行令」や「施行規則」のような、本体の法律とは別に細かい規定を定めたものがあったりするのだが、本書でメインテーマの日本国憲法にはそういうものはない。日本国憲法は、「個人の尊厳」の原理(13条)の達成を目的とする「国のあり方」を述べた「理念」のみを書いた法規範であり、どうやって「『個人の尊厳』を達成するのか」という方法論は、そのときどきの解釈に任されているのである。この解釈が、「誰」による解釈なのか、「どう」解釈するか、ということを争うのが、憲法訴訟だな。

前振りが長くなったが、その憲法訴訟を専門とするのが、本書の著者の遠藤氏。憲法訴訟は難しい。

たとえば、日本国憲法第25条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあるが、文化的な「最低限度」の生活で、エアコン、テレビ、冷蔵庫を所持していい?車は?携帯電話・パソコンは?
「文化的」基準というのは、社会的な情勢を反映しているので、時代によって変遷する。朝日訴訟(1957年)は、この第25条を争った有名な行政訴訟だが、上告審の途中で原告の朝日さんが亡くなり、最高裁判所は訴訟を強制終了させた。

朝日訴訟からも判るように、憲法訴訟は、生存権や基本的人権という「生きる権利」や「個人の尊厳」そのものの基準を争うことが多いと思うのだが、本書でメインとなっているのは、「国籍」問題である。つまるところ、第25条は「すべて国民は」とあるが、では、『「国民」とは誰ぞ』*。・・・本書では、『2008年判決において「国籍制度の枠内」での人権保障が完成されました』(187p.)とあり、誰が国民かという判断も(裁判所の)解釈に委ねられている。(*国民の定義は憲法10条「法律で定める」ということで、国籍法に定められているそうな)。

どう読んでも本書では負けた裁判のほうが多いように読めるのだが、それでも、遠藤氏は、憲法訴訟に果敢に挑み続ける弁護士兼憲法学者である。

内容はちょっと読み手を選ぶかもしれない(若干、法律かじってないと難しいかなぁーうう)。でも多くの人に読んでもらいたい、とても実直で真摯な本だ。

人権という幻: 対話と尊厳の憲法学 人権という幻: 対話と尊厳の憲法学
遠藤比呂通
勁草書房 2011-09-08Amazonで詳しく見る by G-Tools

[book] 『情報病』

団塊世代の定義ははっきりしており、1947~1949年のベビーブームに生まれた世代のことを指す。

新人類は、1986年の流行語部門・金賞になった言葉だが、ネットで調べたところ定義ははっきりしていない。「1960年から1965年頃に生まれた世代」「1955年から1969年までに生まれた世代」「それまでの世代とは違った価値観等を持つ世代を指す」などとされており、最初は筑紫哲也(2008年に亡くなった)が使ったという。筑紫は「新しい価値観をもつ世代ということで」という文脈で使用したらしいが、一般的には特定の世代名称として使用され、今や死語とも書かれていた。

ロストジェネレーションは、朝日新聞が2007年の年始年末特集で、『バブル崩壊後の「失われた10年」に大人になった若者たち』(2007年時点で25~35歳:1972年から1982年生まれ)をこう名付けたらしい。就職氷河期世代の別名ともされている。

『情報病-なぜ若者は欲望を喪失したのか?』(三浦展、原田曜平)では、団塊世代は1947年~1949年生まれ、新人類世代は1965~1969年生まれ、ロストジェネレーション世代は、「団塊ジュニア」(1971年~1974年生まれ)を含む1971年~1982年生まれと定義し、第4世代をそれ以降の若者としている。

で、本書はその第4世代の若者:大学生2人(男1女1)に三浦氏と原田氏がインタビューするもの。わりと主観的な話が続く。

本書で面白かったのは、欧米諸国や中国では世代よりもどの地域に住んでいるか、どの言語か、どの民族かのほうが影響があり、日本ほど世代に拘っていないらしいということ。

あとは、「僕の周りではよしりん*は継がれていないですね。『スラムダンク』は継がれましたけど」という若者に三浦氏が驚愕して、うろたえまくるとことか。
*引用者注:「よしりん」は『戦争論』『ゴーマニズム宣言』などの著者である漫画家の小林よしのり氏のこと。

覚えているのはその2つくらい。大学生2人に三浦氏・原田氏が友人との交流関係や恋愛観、消費行動などについて根掘り葉掘り聞くのだが、どうも本書のテーマがよくみえず、だらだと続くので印象に残らない。

そしたら三浦氏のあとがきで判明した。

本書は「若者の欲望喪失」をテーマに据えてつくられた。若者が欲望を喪失するなんて不可解だという大人のためにである。

三浦氏はこう続ける。

不可解という意味では、バブル時代に高級ブランドを買いあさった新人類世代のほうがよほど不可解だったという気もする。が、大型消費をしてくれさえすれば企業にとって何でもよかったので、若者が不可解だと言われて非難されることはなかったのだ。

そして、現代の若者は、同調指向が強く、情報に敏感であり、「物を消費するのではなく、人間関係の消費に時間とお金を費やしている」と結論づける。

なんだろうなぁ。人間関係やコミュニケーションを啓蒙するたぐいのビジネス書は山ほど出ており、人間関係やコミュニケーションに気を遣い、お金と時間を費やしているのは大学生 (若者)より、社会人(大人)のほうと思う。大学生(若者)は社会や大学から、コミュニケーション能力は重要だとすり込まれているのではないか。そして 20代前半なんて景気の良さを実感した経験は乏しいだろうし、学生の身でほいほいブランド物買ってるほうがヘンじゃんとか思う(し、買っている若者は同世代より大人に非難されるだろう)。しかし、本書では、「物を買わない若者」=「不可解」=「非難の対象」という論法であり、三段論法が最初から成立している感がある。

インタビューという形式は自分の意見が固まっていない相手に行うと、インタビュアーによる誘導になりやすく、とても難しい手法だと思う。本書では2人しかサンプルがないし、立教大学と早稲田の学生だけで若者の代表とするにも無理がある。実際のところ、私にとっては「現代の若者」について何もわからなかったと言って良い。
三浦氏が最後に「僕なんてもう50なのに、いまだに若者の気持ちがわかる人間として取材が来るけど、わかるわけないよ」と書いているが、それが本音なのかも、と思う。

とにかく、謎な本である。

[book] 『絶対貧困』

インドは、『絶対貧困』(石井光太,光文社)とテクノロジーが混在する世界。

「絶対的貧困」と「相対的貧困」の概念が異なることは、『子どもの貧困』(阿部 彩,岩波新書)「子どもの貧困の定義」(pp.40-51.子どもの貧困の定義)に詳しいが、石井光太氏による本書は、絶対的貧困の「世界リアル貧困学講義」。インドのスラム街におけるスラムの分類、日常生活、職業から路上生活の実像、世界のどこへ行っても存在する職業「売春業」などなど自分の足で得た絶対的貧困の実情をリポートする。写真もふんだんにあるが、石井氏の書きぶりが淡々としており、視線が優しいので、読み切れるのだが、内容は実にすごい。

私がチェンナイという都市で取材した例をご紹介しましょう。
この町の犯罪組織は、インド各地から赤子を誘拐していました。そして子供が六歳になるまではレンタチャイルドとして物乞いたちに一日当たり数十円から数百円で貸し与えるのです。(略)。
やがて、彼らが小学生ぐらいの年齢に達します。すると組織は彼らに身体に障害を負わせて物乞いをさせるのです。そのパターンとしては次のようなものがあります。

  • 目をつぶす
  • 唇、耳、鼻を切り落とす
  • (略)

(略)。マフィアたちはナイフや剃刀でそれを切断するのです。指ぐらいでは効果がありません。顔でなければ喜捨につながるほどの悲惨なインパクトがないのです。
(第2部路上生活編.pp.212-213.)

こういう「絶対的貧困」のリポートを読んでおくと、「相対的貧困」の概念も理解がしやすくなる。以下の記事は、日本の「相対的貧困」。

世帯の15%「食料買えず」 貧困層の苦境浮き彫り
厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所が実施した2007年社会保障実態調査で、15・6%の世帯が過去1年間に経済的な理由で家族の食料を買えなかった経験があることが8日、分かった。
2010/01/08 16:51 【共同通信】

本当に「貧困学」が理論として必要な時期なのだと思う。