ひさびさに本の感想。
『人権という幻』(遠藤比呂通 勁草書房)は、Book asahi.comの「著者に会いたい 人権という幻 対話と尊厳の憲法学 遠藤比呂通さん」の記事を読んで、無性に読みたくなった本。手に取ってみると、シンプルな表紙とリキの入った帯がすごく「良い本」オーラを醸し出している。これは、編集者の鈴木クニエさんの力の入れようも大きいと思う。
『憲法学者10年+釜が崎弁護士10年』『「日本に憲法があるんか」という問いに答え続ける著者・遠藤、初の書き下ろし』(帯より)
著者の遠藤比呂通氏は、「1996年、36歳で東北大学法学部の助教授を辞め、その2年後に大阪・西成の労働者街「あいりん地区」(釜ケ崎)で弁護士事務所を開業した」というかた。
内容はといえば、遠藤氏が、弁護士として関わった事件を取り上げ、『法の曖昧性』と『憲法上の解釈論』を手がかりに、国家とは何か、国民とは誰かを問い続ける「憲法学の本」である
野宿のテントを強制撤去されたホームレス、夜間中学の学校運営を批判して卒業文集の作文を勝手に修正された在日韓国人女性、日の丸・君が代の強制に反対して処分された小学校教師。人間の尊厳を訴える様々な依頼人たちと出会い、憲法を実践するための対話を重ねてきた。
(著者に会いたい [文]樋口大二 [掲載]2011年11月13日)
日本は、法体系によって、国のシステムが整備されている法治国家であり、「法律」によって決められたルールに則って、物事の可否(善悪まで含まれてしまう)が判断される。
じゃあ、法律に「この場合はOK」「その場合は条件付きで一部OKね」みたいにひとつひとつの細かい判断基準が書いてあるかというと、そうでもない。というか、いちいち書いていくと膨大(!)だし、「事実は小説より奇なり」で法制定の段階では、将来的に起こるであろう事例は想像できなくて定めることができない、ことも多々ある(これを法の想定外という)。
法律によっては、「施行令」や「施行規則」のような、本体の法律とは別に細かい規定を定めたものがあったりするのだが、本書でメインテーマの日本国憲法にはそういうものはない。日本国憲法は、「個人の尊厳」の原理(13条)の達成を目的とする「国のあり方」を述べた「理念」のみを書いた法規範であり、どうやって「『個人の尊厳』を達成するのか」という方法論は、そのときどきの解釈に任されているのである。この解釈が、「誰」による解釈なのか、「どう」解釈するか、ということを争うのが、憲法訴訟だな。
前振りが長くなったが、その憲法訴訟を専門とするのが、本書の著者の遠藤氏。憲法訴訟は難しい。
たとえば、日本国憲法第25条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあるが、文化的な「最低限度」の生活で、エアコン、テレビ、冷蔵庫を所持していい?車は?携帯電話・パソコンは?
「文化的」基準というのは、社会的な情勢を反映しているので、時代によって変遷する。朝日訴訟(1957年)は、この第25条を争った有名な行政訴訟だが、上告審の途中で原告の朝日さんが亡くなり、最高裁判所は訴訟を強制終了させた。
朝日訴訟からも判るように、憲法訴訟は、生存権や基本的人権という「生きる権利」や「個人の尊厳」そのものの基準を争うことが多いと思うのだが、本書でメインとなっているのは、「国籍」問題である。つまるところ、第25条は「すべて国民は」とあるが、では、『「国民」とは誰ぞ』*。・・・本書では、『2008年判決において「国籍制度の枠内」での人権保障が完成されました』(187p.)とあり、誰が国民かという判断も(裁判所の)解釈に委ねられている。(*国民の定義は憲法10条「法律で定める」ということで、国籍法に定められているそうな)。
どう読んでも本書では負けた裁判のほうが多いように読めるのだが、それでも、遠藤氏は、憲法訴訟に果敢に挑み続ける弁護士兼憲法学者である。
内容はちょっと読み手を選ぶかもしれない(若干、法律かじってないと難しいかなぁーうう)。でも多くの人に読んでもらいたい、とても実直で真摯な本だ。
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