[Zuka] 花組『MESSIAH(メサイア)−異聞・天草四郎−』

ミュージカル『MESSIAH(メサイア) −異聞・天草四郎−』
作・演出/原田諒

MESSIAH ポスター

『MESSIAH』観劇後。ポスターのみりおさん(明日海りお)は妖術使いか魔界転生と思う四郎だけれど、MESSIAHでみりおさんが演じている四郎は真っ直ぐであったかい、良いヤツだよね、先行画像とポスターの四郎から実際の舞台上の四郎には乖離があるなぁ。かれーちゃん(柚香光)の山田右衛門作もちょっと違う。ゆきちゃん(仙名 彩世)の流雨はポスターと舞台姿は近い。どこでそうなったんでしょうか。


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フライヤーの裏。舞台では戦いとなってもこんな表情はしていないんですが。

MESSIAH 天草四郎時貞(明日海りお)

新作のポスター撮影の時にはまだ脚本が出来てないことが多いので、キャストは演出家からイメージを指示されると聞いたことはあるのですが、この”妖術使い”四郎は原田先生の指示なんでしょうね。途中で脚本か演出が変わったんでしょうか。

『MESSIAH』は、原田先生が力を入れて創作したというのが、よく判る作品ですが、注意してかなり細部まで詰めてあるだけに、御本人が修正しきれない(出来ない)のであろう粗やクセ(特徴)が残ってしまった、という印象です。私は粗やクセが本質的な部分を浸食しない限り、スルーするタイプなんですが、原田先生はたいてい本質的な部分で見誤ってるんですね。そしてたいていキャスト達の熱演に救われてる、という。

『MESSIAH』で私が最も良かったと思ったのは、配役がよく錬られて、花組のスターが要所に振り分けられてキャスティングされ、大人数芝居が活かされていたことです。70~80人の出演者を配置した1本物(95分)というのは、宝塚歌劇ならだとは思いますが、大劇場の作品を創るのはそこが難所だろうなとも思うのです。原田先生は花組の現メンバーとは、『雪華抄』(2016年)、『For the people』(2016年)で一緒だったので、花組子を知っているというのがあるんでしょうけれど、バランスの良いキャスティングでした(作品の内容にもよるので、毎回こうはいかないと思う)。

原田先生は、英雄譚を描きたいのかと思うのですが、その英雄と対峙するものを矮小化するクセ(特徴)があって、『ベルリン、わが愛』で矮小化されたのはナチス・ドイツ(ゲッベルス)でしたが、今回はキリシタン達が信仰する教え(カトリック教)です。対峙するものを矮小化すると、英雄が大きくなるかというと更にあらず、一緒に卑小化するので止めたほうがいいと思うのです。

今回、悪役となっているのは、肥前島原藩2代目藩主・松倉勝家(鳳月 杏)とその家臣である多賀主水(冴月瑠那)、田中宗甫(天真みちる)ですが、彼らの役作りがぴったりハマり、勝家は絵に描いたような暴君で、とってもいい。おかげで松倉家が大嫌いになりました。

キリシタン弾圧では、徳川家光(紅羽真希)も率先して大虐殺を行っており、火刑、水磔、鋸挽き、穴釣りの刑と残忍です。そういう意味では松倉勝家は頼もしい大名の一人扱いだったんだろう、と。

原田先生は、下調べをきちんとして知識も豊富な方なんだろうと思うのですが、それらを統合して脚本にすると、安直さが先に立ち、矮小化をしたり、本質を見誤ったりするので、ご都合主義と言われてしまうのかな。

舞台装置やセット、音楽、衣装をイメージし、総合プロデュースする演出家としての力量が卓越しているだけに、お芝居ではそこがもったいないのですが、和物ショー『雪華抄』は原田作品の良さがとても出ていたので、洋物ショーも観たいと思っています。

という辺りで続く。

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ミュージカル『MESSIAH(メサイア) −異聞・天草四郎−』
作・演出/原田諒

江戸時代初期、幕府による禁教令が発布された後も、九州・天草の地には数多くのキリシタンが隠れ住んでいた。そこに一人の男が流れ着く。自らの過去を多く語ろうとしないその男は、キリシタン大名として知られた小西行長の遺臣によって拾われ、四郎と名づけられた。周囲の人々に頑なな四郎は、やがて一人の娘との出会いを通じてキリシタンの教えを知ることになる。その頃、肥前島原藩主によるキリシタン弾圧と過酷な年貢の取り立てに、民衆たちの我慢は限界に達していた。天草、そして島原の人々の為、立ち上がることを決意する四郎。はたして彼は真の救世主(メサイア)となり得たのか、そして人々の心に何を残したのか……?

島原の乱の指導者として多くの伝説を残し、今もなお謎多き人物として異彩の魅力を放つ天草四郎時貞の姿を、新たな視点でドラマティックに描き出した作品。従来の日本物の枠にとらわれず、衣装や美術に現代的なエッセンスを加味した、新たな日本物オリジナル・ミュージカルとしてお届け致します。