[Zuka] 花組『MESSIAH』(2)海乱鬼・夜叉王丸

『MESSIAH』が、天草四郎の「異聞」であるのは、天草四郎の設定や時系列や人間関係が本作オリジナルになっているためと思われます。演劇はフィクション(虚構)で、史実検証ではないので、オリジナル創作でも構わない。けれど、その場合は創作者による世界観の構築がとても重要になる。

VISAの明日海りおさんからの今月のメッセージ(7/20(金)に届いたもの)で、みりおさんが天草四郎の役作りのポイントを話してくれていますが、さすが土台作りが緻密だなと思います。

外部でも、日本版『マタ・ハリ』(柚希礼音主演)の訳詞・翻訳・演出を手がけた石丸さち子さんのインタビューで伺えるように、年表を自分達で作り直すくらいの作業がいるんだと思いますね。→【マタ・ハリ通信(4)】演出家・石丸さち子に訊く(げきぴあ編集部(2017年12月27日 )

ネタバレあり。まとまってません。


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夜叉王丸から益田四郎時貞に

本作の天草四郎(明日海りお)は、史実より数歳(4~5歳)上の20歳前後。海賊(海乱鬼)の頭である夜叉王丸が嵐で遭難し、天草諸島の大矢野島に流れ着いて、小西行長の遺臣である益田甚兵衛(一樹千尋)とその娘婿の渡辺小左衛門(瀬戸かずや)に助けられ、甚兵衛の4人目の子ども、益田四郎時貞として”生まれ変わる”。

浜辺の現れた怪しい人物をあっさりと受け入れる益田甚兵衛を、ヒロさんが剛毅に演じているけれど、剣呑な眼をした若者を、躊躇無く自分の子どもにしようと受け入れるのは、疑問も感じる。歌劇7月号座談会も読みましたが、そういうお国柄 ??

浜辺での夜叉王丸が、仲間を喪い、名前も名乗れず、捨てられてパニックの猫みたいな眼をして(猫飼い目線)、甚兵衛に拾われる。おうちが出来て安心するよね、みたいな所もあるけれど、浜辺に倒れていたのを拾われて看病の末に、というくらいのほうが観客として受け入れやすいとは思いました。

その後、時が何日か経過し、島の環境と人間関係に慣れ、すっかり明るく柔和になった四郎が登場する。四郎の表情や態度が激変していて、それで時間の経過を感じるのですが(みりおさんの演技が細かい)、この時間の経過も、演技だけではなく、台詞か演出で表したほうが判りやすい。

ここで四郎に、甚兵衛の長女・福(桜咲 彩花)の夫である小左衛門が、「私達が助けたのではない。天主(デウス)の御慈悲だ」「弱き者を助け、傷ついた者を救うことは、神の御心に叶うこと」と、身元不詳のよそ者を助けた理由を話す。キリシタンの教えに興味を持つ四郎だが、キリシタンが弾圧される現状に、神の御心、デウスがお守りくださるという教えに疑問を抱く。

四郎の考え方や立ち位置がとても現代的で、だから異邦人設定で、お衣装も現代的な風味で、原田先生の思いが投影されているのかなと推測します。

四郎の正体をキリシタン達とは異なる者=異邦人・夜叉王丸と設定したことで、異邦人が従来とは全く異なる概念をキリシタン達に持ち込み、抑圧され忍耐に忍耐を重ねていた彼らにカタルシスを与えたというのは理解できる流れです。海賊だった四郎は、琉球や明国、澳門(マカオ)、呂宋(ルソン)、安南国など海の彼方のことを知っており、「天気や風向きさえも言い当てる」「神さまみたい」と言われ、海賊設定が、四郎=神の子となったエピソードに活かされていて、現実的な使い方だと思いました。

また、よそ者を怪しがる村の若者・長一郎(帆純まひろ)というアンチテーゼを提示する者を置いたのも良いと思いましたが、騒ぐ長一郎が憧れの咲・甚兵衛の次女(城妃美伶)や周りに全く相手にされないのでちょっと可哀想(苦笑)。

ル・サンクを見ながら細かいことを言うと、小左衛門(瀬戸かずや)の「小西様の元で名を馳せた渡辺小左衛門だ」というのは、年齢が合わない。小西行長は、1600年11月6日に死没していて、小左衛門は1610年生まれ(史実)です。小西様の元で名を馳せたのは、舅の益田甚兵衛ではないんでしょうか。それとも時系列改変でしょうか。史実では甚兵衛は小西行長の祐筆らしいけれど、「名を馳せた」というからには武士設定かな。描かれていないので判りませんが、あきらの渡辺小左衛門は精神が武士ですね。潔くて頼もしくてカッコいい。

宗教一揆か百姓一揆か

さて「島原の乱」は、歴史的には年貢の減免や借金の棒引きを主目的とする百姓一揆(土一揆)扱いです。当時のポルトガルからの宣教師は棄教を迫られたら殉教せよと説き、「此の如く覚悟確かにして死することは、却ってかたじけなきデウスの御恩なりと思ひとりてこの死するを科おくりのささげ物…」(『切支丹の里』遠藤周作)と教え、弾圧に抗する武装蜂起は想定していない。

本作でも蜂起の理由は飢饉が続いて収穫もないのに、年貢の取り立てが苛烈なのが、キリシタン弾圧より先に来ているように思える(ただしこの二つはすっきり分けられるものではない)。

天草諸島は肥前国唐津藩に属し、藩主は2代目の寺沢堅高(本作では登場しない)。天草も松倉勝家が治める島原同様、貧しい土地で年貢の取り立ては厳しく、大矢野島の村人達も食うや食わずで苦労している。けれど、島原の松倉勝家は、年貢が納められないと簔を背負わせて火をつける簔踊りや水責め、雲仙地獄で熱湯責めという拷問を行ったと、リノ/ 山田右衛門作(柚香光)が、松平信綱(水美舞斗)に答え、その「唯一の救いがイエズスの教えでした」と島原の民が隠れキリシタンとなっている理由を説明する(第16場)。

イエズス会の教育機関である有馬のセミナリヨで絵を学び、宣教師から直に教えを受けたリノは知的で教養があるので説明が簡潔で要領が良く、松平信綱とも気脈が通じることが出来ている。柚香光と水美舞斗の間柄というのが芝居にも出ている。水美舞斗の松平信綱は気高くて、責任感が強い。「雲仙地獄」のところで顔を歪めてリノの話に相づちを打ってくれ、プレ・ステージの取材で学んでいたマイティが出ていた。

柚香光のリノは繊細だが、信仰厚く、情愛があって、このリノが記憶と罪を一身に背負って、徳川家綱(聖乃 あすか)の時代まで生き残っている。リノが生きていくことが彼らの生きていた証になると信じて。徳川家綱(聖乃 あすか)に呼ばれる刻を待っていたかのよう。柚香光の芝居が作品毎に緻密に深くなっていく。

四郎は、学はないけれど、まっすぐで直感的で直情的で義理人情に厚くて、海乱鬼の仲間だった不動丸(飛龍 つかさ)と多聞丸(一之瀬航季:亜蓮冬馬の代役)が生きていて、彼らの宝探しに行くのも、子どもみたいに楽しそうで、昔からの仲間が生きていた喜びを感じさせる(第7場、第9場)。

その四郎が、海乱鬼の夜叉王丸だった自分を救ってくれた天草の人達が苦しんでいるのを見かねて、「俺たちの手ではらいそを築けるはずだ。皆が幸せを、自由を手にできる地を。俺たちの力で!」と生きろと叫び、メサイアと呼ばれるようになる(第13場)。この場面は爆発的なカタルシス、天地逆転のパワー。「メサイア」のコーラスが圧倒的で、第3場Aでの「きりえ」の静かで美しい祈りの唱和とは対照的。

この場面では上手にいる、リノが打ち震えて捌けていくのが、目にとまる。四郎に懐疑の目を向けていたリノがここで受けた衝撃というのは計り知れないと思う。その衝撃からリノが表した絵は、後ほど明らかになる。

そしてリノがサンタマリアと呼ぶ流雨(仙名彩世)。とにかくゆきちゃんが美しくて、慈愛と優しさがあり、民の安寧のためなら、自分が犠牲になることを厭わない女性。四郎を突き動かしたのも、このひとが、松倉に目をつけられたからですよね。原田作品的な静のヒロインなのですが、仙名彩世の内面に宿る激しさが、受け身に見せない流雨像を築いている。原田先生のヒロインは尽くす系が多いのも特徴です。

幕府軍の出陣で追い詰められた一揆軍は、原城に籠城し、兵糧攻めで敗戦の色が濃くなり、幕府軍から投降を勧める矢文が届く。四郎は「皆が改宗に応じるはずがない」とあくまで戦うことを選び、自らは教えには第三者的立ち位置を崩さない。その四郎にリノも流雨も共に着いていくことを望み、リノは生き抜くことを命じられる。

私はこの辺りでこの作品の宗教的感覚が判らなくなり、関連資料を読み込んだら、ますます判らなくなり、大階段上の犠牲者を照明で十字架に象って照らすのも、あざといとしか思えなくて、非常につらかった。結局「棄教するなら殉教」というのは宣教師の殉教の勧めに戻っているわけで、生きるための戦いって、生きるための算段が一揆の場面ではなにも表現されてないじゃん!単純な戦いで勝てると思ってるのかよ!とかもごもご。

「異聞」なんだから、本当に生き抜くためのあの手この手を描いてくれても良かったのに、結論だけ史実通りなわけです。生きるための物語ではなくて、英雄譚はこれで良いのかとは思いますが、個人的に浄化されるものが何もなく、だから私は『ANOTHER WORLD』が好きなんだなと自分の志向を再確認しました。泣くのは泣けますよ。理不尽に人が死ぬのを見たら泣くしかないでしょう。

花組&ヒロさん、がんばって。

これ以後、徳川幕府はこの一揆をキリシタンの反乱と見直して、鎖国体制を築いていくことになる。松倉と幕府側については別記事にしたい。