[dairy] あけおめ

0:05
あけましておめでとうございます。
Twitterで、零時に合わせて、バルスってつぶやいたのですが、Over Capacityと言われて反映されなかったので、こちらで。バルス!!今年もよろしくお願い申し上げます。

上を向いて歩くと、電信柱にぶつかるかもしれないから、前を向いて歩いていこうね。

[site] 再構築中

15:43
wordpressのあっぷでーとにしっぱいして、かっとしてファイル全部削除しました。いちからいんすとーるちゅう。orz
webサイト再構築中。データベース全てリセットされました。しくしーく。

20:36
とりあえず復旧した。データは地道に修復します。

[book] 『情報病』

団塊世代の定義ははっきりしており、1947~1949年のベビーブームに生まれた世代のことを指す。

新人類は、1986年の流行語部門・金賞になった言葉だが、ネットで調べたところ定義ははっきりしていない。「1960年から1965年頃に生まれた世代」「1955年から1969年までに生まれた世代」「それまでの世代とは違った価値観等を持つ世代を指す」などとされており、最初は筑紫哲也(2008年に亡くなった)が使ったという。筑紫は「新しい価値観をもつ世代ということで」という文脈で使用したらしいが、一般的には特定の世代名称として使用され、今や死語とも書かれていた。

ロストジェネレーションは、朝日新聞が2007年の年始年末特集で、『バブル崩壊後の「失われた10年」に大人になった若者たち』(2007年時点で25~35歳:1972年から1982年生まれ)をこう名付けたらしい。就職氷河期世代の別名ともされている。

『情報病-なぜ若者は欲望を喪失したのか?』(三浦展、原田曜平)では、団塊世代は1947年~1949年生まれ、新人類世代は1965~1969年生まれ、ロストジェネレーション世代は、「団塊ジュニア」(1971年~1974年生まれ)を含む1971年~1982年生まれと定義し、第4世代をそれ以降の若者としている。

で、本書はその第4世代の若者:大学生2人(男1女1)に三浦氏と原田氏がインタビューするもの。わりと主観的な話が続く。

本書で面白かったのは、欧米諸国や中国では世代よりもどの地域に住んでいるか、どの言語か、どの民族かのほうが影響があり、日本ほど世代に拘っていないらしいということ。

あとは、「僕の周りではよしりん*は継がれていないですね。『スラムダンク』は継がれましたけど」という若者に三浦氏が驚愕して、うろたえまくるとことか。
*引用者注:「よしりん」は『戦争論』『ゴーマニズム宣言』などの著者である漫画家の小林よしのり氏のこと。

覚えているのはその2つくらい。大学生2人に三浦氏・原田氏が友人との交流関係や恋愛観、消費行動などについて根掘り葉掘り聞くのだが、どうも本書のテーマがよくみえず、だらだと続くので印象に残らない。

そしたら三浦氏のあとがきで判明した。

本書は「若者の欲望喪失」をテーマに据えてつくられた。若者が欲望を喪失するなんて不可解だという大人のためにである。

三浦氏はこう続ける。

不可解という意味では、バブル時代に高級ブランドを買いあさった新人類世代のほうがよほど不可解だったという気もする。が、大型消費をしてくれさえすれば企業にとって何でもよかったので、若者が不可解だと言われて非難されることはなかったのだ。

そして、現代の若者は、同調指向が強く、情報に敏感であり、「物を消費するのではなく、人間関係の消費に時間とお金を費やしている」と結論づける。

なんだろうなぁ。人間関係やコミュニケーションを啓蒙するたぐいのビジネス書は山ほど出ており、人間関係やコミュニケーションに気を遣い、お金と時間を費やしているのは大学生 (若者)より、社会人(大人)のほうと思う。大学生(若者)は社会や大学から、コミュニケーション能力は重要だとすり込まれているのではないか。そして 20代前半なんて景気の良さを実感した経験は乏しいだろうし、学生の身でほいほいブランド物買ってるほうがヘンじゃんとか思う(し、買っている若者は同世代より大人に非難されるだろう)。しかし、本書では、「物を買わない若者」=「不可解」=「非難の対象」という論法であり、三段論法が最初から成立している感がある。

インタビューという形式は自分の意見が固まっていない相手に行うと、インタビュアーによる誘導になりやすく、とても難しい手法だと思う。本書では2人しかサンプルがないし、立教大学と早稲田の学生だけで若者の代表とするにも無理がある。実際のところ、私にとっては「現代の若者」について何もわからなかったと言って良い。
三浦氏が最後に「僕なんてもう50なのに、いまだに若者の気持ちがわかる人間として取材が来るけど、わかるわけないよ」と書いているが、それが本音なのかも、と思う。

とにかく、謎な本である。

[book] 『絶対貧困』

インドは、『絶対貧困』(石井光太,光文社)とテクノロジーが混在する世界。

「絶対的貧困」と「相対的貧困」の概念が異なることは、『子どもの貧困』(阿部 彩,岩波新書)「子どもの貧困の定義」(pp.40-51.子どもの貧困の定義)に詳しいが、石井光太氏による本書は、絶対的貧困の「世界リアル貧困学講義」。インドのスラム街におけるスラムの分類、日常生活、職業から路上生活の実像、世界のどこへ行っても存在する職業「売春業」などなど自分の足で得た絶対的貧困の実情をリポートする。写真もふんだんにあるが、石井氏の書きぶりが淡々としており、視線が優しいので、読み切れるのだが、内容は実にすごい。

私がチェンナイという都市で取材した例をご紹介しましょう。
この町の犯罪組織は、インド各地から赤子を誘拐していました。そして子供が六歳になるまではレンタチャイルドとして物乞いたちに一日当たり数十円から数百円で貸し与えるのです。(略)。
やがて、彼らが小学生ぐらいの年齢に達します。すると組織は彼らに身体に障害を負わせて物乞いをさせるのです。そのパターンとしては次のようなものがあります。

  • 目をつぶす
  • 唇、耳、鼻を切り落とす
  • (略)

(略)。マフィアたちはナイフや剃刀でそれを切断するのです。指ぐらいでは効果がありません。顔でなければ喜捨につながるほどの悲惨なインパクトがないのです。
(第2部路上生活編.pp.212-213.)

こういう「絶対的貧困」のリポートを読んでおくと、「相対的貧困」の概念も理解がしやすくなる。以下の記事は、日本の「相対的貧困」。

世帯の15%「食料買えず」 貧困層の苦境浮き彫り
厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所が実施した2007年社会保障実態調査で、15・6%の世帯が過去1年間に経済的な理由で家族の食料を買えなかった経験があることが8日、分かった。
2010/01/08 16:51 【共同通信】

本当に「貧困学」が理論として必要な時期なのだと思う。

[dairy] よしなし

4:47
「公設派遣村:再始動…都、想定外の支援 市民団体が後押し」(毎日新聞)。本当に対処療法的。セーフティネットが機能し、なおかつ努力が報われる社会(全ての努力が報われるということではない)というのはないもんかね。

15:12
「自分はこうだったから」と他人の話に対してコメントするのは、共感という場合と単なる押し付けの場合と。

22:00
卒論にいそしむ4年生。まだまだまじめに教科書的に書く学生達に、「派遣の何がいけないのか?」「天下りがなくなると思うか?」「医療 機関は全ての患者を受け入れるって、できないことを書くな!」「受け売りじゃなく自分の頭で考えろ」と次々と突っ込んでいく指導教員。横で聞いていると興 味深いよ。

[movie] マイケル・ムーア「SICKO」

公開初日のマイケル・ムーア監督「SICKO」を見てきました。
いきなりブッシュ大統領のアップで始まった。マイケル・ムーアはよっぽどブッシュ大統領を愛しているらしい(笑)。

さて、「SICKO」はアメリカの医療制度をテーマとしたドキュメンタリー。シニカルなコメディとパロディを交えて笑いを取りながら、アメリカの医療制度の悲惨な現状を露わにしていく。マイケル・ムーアらしく恣意的な構成や統計的なデータ抜きにした扇情的な煽り、ドン・キホーテのごとき突撃精神とヒューマニズムにあふれている。社会保障制度との比較での他国の取り上げ方も、カナダ、イギリスときて、フランス、とどめにキューバ!を持ってくる辺りもあざとい。

アメリカは国民皆保険ではない。医療サービスを受けるには、健康保険を民間保険会社から商品として購入(契約)することが大前提となる。健康保険プランには種類があるが、メジャーなのがマネジド・ケアであるHMO(Health maintenance organization)である。マネジド・ケアにより医療費に厳しく制限を設けているHMOの悪評は高く、「SICKO」で取り上げている事例はHMO のものがほとんどだと思われる。

アメリカでは過去に、ヒラリー・クリントンによる国民皆保険の導入提案を、「社会主義的管理医療」とよってたかって弾劾して潰している。マイケル・ムーアは、カナダ、イギリス、フランスを回り、「国民皆保険」=「社会主義的管理医療」というイメージを崩していく。

そして、真打ちはバリバリの社会主義国キューバである。アメリカが長年、経済制裁を行ってきた仮想敵国!その国の制度とアメリカの医療制度を比較。どう見てもアメリカの医療制度がキューバに負けているのである。アメリカ人のショックは想像に難くない。
構成も脚本も良く錬られていて、エンターテイメントとしてもプロパガンダ映画としては面白い。マイケル・ムーアは確信犯だよ。

[movie] ゲド戦記

ようやく観た。

なんだ、ふつーじゃん。

グラフィックの美しさはまぁジブリの質が保たれているし、監督第1作目にしてはよくやったほうだと思いました。
テーマを台詞だけで説明しきっちゃおうとするところとか、間が空きすぎたり、テンポがとろかったりするところとか、世界観がみえないとか、いろいろ気になる点はあるけど、まぁ、素直な感性がにじみ出ていて、悪い出来ではない。というより、素人が監督になったにしてはよく出来ていると思います。 

印象に残ったシーンは、テルーが歌うところ、アレンが剣を鞘から抜くところ。好きなところ、ゲドの声(菅原文太)、テルーの唄(作詞:宮崎吾朗、作曲:谷山浩子、歌:手嶌 葵)。 
テルーが歌うところは挿入歌が延々と続いて長いなぁと思っていたのに不思議に印象強いのだ。歌うテルーの横顔から目をはなせないアレン。不安定なアレンの心にテナーがしっかり根を下ろした瞬間がくっきりわかるシーンだ。

キャラクター造形があまりにも宮崎駿ちっくなので、紛らわしいが、これは、【雑誌『インビテーション』4月号採録 「鈴木プロデューサー ゲド戦記を語る(1)」】によると鈴木敏夫プロデューサーの提案らしい。これだけじゃなくて、【世界一早い「ゲド戦記」インタビュー(完全版)】を合わせて読むと、あちこちに鈴木プロデューサーが仕掛けを施していることが判る(この2つのインタビューをジブリ公式サイトに公開して、仕掛けの内幕を見せることを含めて!)。

例えば、原作にはない「父親殺し」のモチーフ。これもある意図を持って挿入されたという噂がたっているが、映画の話題作りにはいいネタでしょうが、ストーリー的には余分。『原作「ゲド戦記」、原案「シュナの旅」』とクレジットしてある時点で、もはやル=グウィンの原作とは別物なんだから、「父親殺し」とかの余計な部分を削って、クモとアレンの対決を中心の勧善懲悪ものにしちゃって、もう少しに絞ればもっとすっきりしたものになったんじゃないだろうか(私はル=グインの原作を読んでないので、原作には思い入れがないののだ)。

プロデューサー的には映画の完成度よりネタ作りをとったんだろうなぁという印象を強く受けました。宮崎駿や高畑勲のジブリ作品より作品の質が落ちるのは最初から判っていることだから、何より話題を作って客を呼んで、興行的に成功させることを目指した。だって、作品もダメ興行的にもダメじゃ、事業は成り立たない。しかしここで興行的には成功しておくと次に繋がる。と、考えると、なんだか戦略としてはとっても正しいのかもしれませぬ。

というわけで鈴木プロデューサーに座布団1枚。宮崎吾郎監督にはエールを送ります。