花組大千秋楽から、10日近く経ちました。花組は全国ツアーの集合日(2/13)を迎えています。
遅まきながら、冴華 りおな様、桜花 りな様、ご卒業おめでとうございます。幸せと楽しさをありがとう。これからの人生にも幸多きことを、お祈り申し上げます。
花乃ちゃん、花乃 まりあ様はしばらくゆっくりして、タカラジェンヌとして身につけた娘役の美しさと品を持って、また舞台に戻ってきてくれることを祈っています。
2017年2月5日(花組 東京宝塚劇場公演千秋楽)付で退団
原田諒先生、「For the people-リンカーン 自由を求めた男-」優秀作品賞、優秀演出家賞の受賞おめでとうございます。玉麻尚一先生が同作品でスタッフ賞(作曲・編曲)、轟悠理事が同じく同作品で女優賞。良い作品が評価されるのは素晴らしいことです。原田先生の脚本・演出は従来の宝塚歌劇の枠を広げるものとなっているような気がします。『雪華抄』はすてきなショーでしたが、お芝居のほうも期待しております。
さて、『金色の砂漠』。もうネタバレ書いて良いですよね!
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タイトルの金色の砂漠は、イスファン王国の現王ジャハンギール(鳳月 杏)の妻である王妃アムダリア(仙名彩世)が作った歌にある「この砂漠のどこかにある“死に抱かれて”“この罪の終わる場所”“金色の砂降る砂漠”」を指す。
アムダリア自らが作り、好んで歌った「金色の砂漠」に、タルハーミネ(花乃 まりあ)は格別の興味を示した。ギィ(明日海りお)の制止も聞かずに、金色の砂漠を探しに、国の周りを取り囲む砂漠に彷徨い出て、ギィに連れ戻された事がある。タルハーミネはなぜそんなにも「金色の砂漠」を熱望したのか。それは最後まで判らなかったが、この歌に込められた、砂漠の厳しさと「金色の砂漠」への慕情は、最初から最後まで舞台にあり、一貫したムードをもたらしている。
アムダリアがこの歌に込めた「罪」は、前夫バフラムを倒した仇であるジャハンギールの妻となって生き延びたことであろうかと思う(ギィはこの歌を何度も歌っていながら、全然気付いていないのだろうか。これも謎)。
ジャハンギール王とアムダリアが国を興した際に犯した過ちが王国を滅亡に導き、その過ちは、王が国の後継者を選ぶために王女への求婚者を集めたことを契機に顕在化していく。なぜ王は、王国の後継者たる王女の特別な奴隷に、前王バフラムの長子と次子を選んだのか。その母たる者の目の届く範囲においてやりたかったのか。敗者となった王族のものは滅する掟を破った、その恩情に対する返礼は王国の滅亡であった。
最後に全ての罪を覚ったアムダリアは、「この罪の終わる場所」である金色の砂漠を求めた。結局、アムダリアが歌に込めた「罪」とは、彼女が生きている間に憎み愛したこと全てに、己の存在そのものを、「罪」とかけているのかもしれない。
金色の砂漠は、”死に抱かれた”場所、いわゆるあの世、涅槃なのだろうと理解したけれど、この歌にある「罪」とは、宿痾的なものを感じさせ、いわゆる「原罪」の意味も込められているのか。うがち過ぎ?キリスト教における原罪は、「アダムとイブから受け継がれた罪」のこと。掘っても掘っても何かが出てくるような気がする作品である。