五月雨式に書くといいつつ、間が空いております。宙組の東京宝塚劇場公演『Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』HOT EYES!!』は2月19日(金)に初日を迎えて、タカラヅカニュースで初日映像を見ました。なにやら演出上の細かな変更があったとか。こういう時は東京公演が羨ましくなりますね!
『Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』はとても好きな作品で、大劇場でもっと見ておけばよかったと思い手帳を見返したら、1月は『LOVE&DREAM』月間だったのでした。スカステでの千秋楽放映を1年くらい待つしかない。
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雑感を書いておくと、 『Shakespeare』では「言の葉」=「言葉」が重要視され、真風 涼帆演じるジョージ・ケアリー卿は、ほんの数言で、ウィリアム・シェイクスピア(朝夏 まなと)の才能を見抜き抜擢したとされている。しかし、個人的には「言葉」と「物語」はまた異なるものであり、「物語」には「行間」とか「間合い」という「空間」も大事なんだよね、と思ったりもしていた。言葉のない、空白の間合い。情感と余韻。その空間にこそ人の思いは育まれるのかもしれない。そして表情や仕草、視線で伝わる、その思い。
舞台『Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』には何ともいえぬ、空間の広がりがあり、私はその開放感が大好きだった。
その空間の源はなんだろうと考えると、まずはウィリアム(朝夏)の伸びやかな歌声が響く空間と、アン(実咲 凜音)の爽やかな歌声、ストラットフォード・アポン・エイヴォンの五月祭の華やかさと楽しさであった。
その「空間」が閉じていくのが、ウィリアム(朝夏)がパリの劇団でジョージ(真風 涼帆)に言われるままに物語を作り続けて己を見失うくだりである。本作 『Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜』は、物語の最初と最後にウィリアムとアンのエピソードがあり、真ん中はウィリアムとジョージのエピソードで構成されている。
18歳のウィリアムにアン(実咲)との結婚を認め、ロンドンに誘い、パトロンになって劇作家として成功への道を開いたジョージは、ウィリアムにとって言葉の女神アンと同じくらいの重要人物である。本作はジョージ(真風)の演じ方によって作品の見え方が変わっていった。
ジョージは妻ベス(伶美 うらら)に扇動されて、ウィリアムとその作品を政争の道具として利用する事を考える。ジョージに言われるがままに言葉を紡ぎ続けるウィリアム。紡いでも紡いでも満たされない。果てしない飢え。
ウィリアムの書くものが、政治的な、為政者を倒す作品に偏っていく。ペストによる死と隣り合わせに生き、日々の生活に汲々とするロンドン市民にとって、ウィリアムの舞台は、鬱憤のはけ口として歓迎される。そんなウィリアムに、アンとリチャード(沙央 くらま)との疑念を吹き込むジョージ。
そしてアンは息子ハムネットと共にストラットフォード・アポン・エイヴォンに帰っていく。
ジョージは、ウィリアムをどこへ連れて行こうとしているのか。
尽きせぬ空しさ 悲しみは独りではこない
「ハムレット」の作品中で、エリザベス1世の重臣である枢密顧問官ウィリアム・セシル(凛城 きら)を連想させる人物(ポローニアス)を殺したことにより、ウィリアム達は騒乱罪で逮捕される。
ここから先が、この作品の真骨頂だと思う。
ウィリアムは、エリザベス1世(美穂 圭子)に課された”夫婦愛”というテーマの新作に取り組む。
厳しさの中でもユーモアを見せる美穂様のエリザベス1世に背中を押され、リチャードに活を入れられて、言葉に向かい始めるウィリアム。欲望を打ち砕かれ、気が抜けて「アイアン・メイデン」とか「イケメン」とか口走るジョージ。愛月 ひかるのサウサンプトン伯ヘンリー・リズリーと桜木 みなとのエセックス伯ロバート・デヴルーははまり役だった。イケメンというより「美形」なんだよね!
ウィリアムの新作「冬物語」の開演。開かれていく空間。言葉の女神を取り戻したウィリアム。
自分だけの光を求めて
人は生きる
Will in the World
言葉は空を満たしていく
Will in the World
朝夏まなと、まぁ様の歌声で満たされた空間はとても気持ちよかったです。