[Zuka] 2015雪組『星逢一夜』

『月雲の皇子』、『翼ある人々』で立て続けにヒットを飛ばした上田久美子氏の大劇場デビュー作品。3作目で大劇場デビューは早い方だと思うが、早霧せいな咲妃みゆのトップコンビ、2番手の望海風斗が演じることを想定して描かれた日本物の舞台は、細部まで計算が行き届いた緊密さと静謐な美しさが充ちた作品となっていた。

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時代は、徳川幕府八代将軍吉宗(英真 なおき)の治世である。

吉宗が将軍に就いたこの時代、徳川幕府は非常な財政難にあり、八代将軍となった吉宗が着手したのが幕藩体制の立て直しと財政の安定化を図るための、いわゆる”享保の改革”である。

『星逢一夜』は、この享保の改革を背景に、吉宗を助ける老中に着任した早霧せいな演じる天野晴興が、自らの領地である九州の三日月藩(架空の藩)で過ごした子ども時代から成人し、幕府の要人となった20数年間を描く。

星逢は、星合いであり、年に1回、七月七日の夜(作中では陰暦)に牽牛星と織女星が出逢う、現代では七夕と呼ばれる風習である。年中行事は、農作物の豊作を祈るものが多いが、七夕も中国伝来の乞巧奠と五穀豊穣を祈る祭りが習合したものと考えられている。五穀といえども、この時期は、米の豊作を祈ることが中心であったろう。米は、年貢(税金)としてして納めるものであったが、その収穫は天候に左右され、毎年一定ではない。星逢(七夕)の頃に、神や精霊に、供物と共に歌や踊りを捧げて、豊穣を祈るのが、夏の祭りであり、農民の楽しみであった。

吉宗の享保の改革における財政再建策は、年貢の徴収方法を変更し、増税するという方法であったが、そのために百姓一揆が頻発した※。吉宗(英真)に取り立てられて御用取次から老中に昇格した晴興(早霧)は、故郷の三日月藩で百姓一揆の企てがあることを知り、未然に防ぐために、幼馴染みで親友であった源太(望海 風斗)と、源太の妻で、晴興の初恋の人である泉(咲妃 みゆ)に会いに三日月藩に赴く。

※本作で取り上げられる百姓一揆のモデルは、9代将軍家重の時代に美濃国群上藩で起きた宝暦騒動(郡上一揆)とのことで、少し時代はズレている。

上田久美子氏は、これらの「星逢(七夕)」、「米」、「百姓一揆」を題材に、見事な統一感のある舞台を創り上げている。

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統一感を創り上げるのに大きな役割を果たしている功を奏しているのは、色使いである。ポスターを見ると判るが、青系統の色使いで統一されている。星逢、つまり星に逢う夜の色としての、藍(あい)、群青(ぐんじょう)、紺青(こんじょう)に連なる色彩だ。

『星逢一夜』『La Esmeralda』ポスター
『星逢一夜』『La Esmeralda』ポスター

舞台の幕開けは、夜空を舞う蛍を模した踊りで始まる。晴興(紀之介)のふる里、三日月藩の自然の姿である。

夜空は黒一色ではなく、群青、紺青、藍、薄青、瑠璃、青紫と光を含んで微妙に色合いを変えていく。上田氏の感覚の良さは、この色使いにも出ており、日本の伝統的な色である「藍」を中心に使うことで日本物としての雰囲気を盛り上げている。余談であるが、藍染めは、海外では“Japan Blue”と呼ばれている。

それから藍と相性の良い、草深い野山の深い緑は、遠目には本物と見まがわんばかりに細かく丁寧に細工が施され、うっそうと茂る木々を印象づける。「月雲の皇子」でも自然を模した背景は出てきたが、その使い方はさらに磨かれていた。

<あらすじ>

星を見るのが好きだった幼い晴興(幼名は紀之介:早霧せいな)は大名の息子とは言え次男坊であり、三日月藩は小大名であったため、出世の見込みは少ない。紀之介(早霧)は、源太(望海風斗)や泉(咲妃みゆ)、氷太(鳳翔 大)、澪(沙月 愛奈)ら農民の子達と星見櫓を作って星を見、草深い野山を駆けまわっていた。だが兄の死によって、紀之介(早霧)は父である照興(久城 あす)に連れられて、将軍吉宗(英真)に伺候し、星見の才を買われ、側近くに使えることになる。

数年後、成人した晴興(早霧)は幼名をあらため、江戸から三日月藩に帰る。久方ぶりにあった泉(咲妃)は、美しい女性になり、源太(望海)は若衆のリーダー格となって泉(咲妃)と祝言を挙げることになっていた。

だが、源太(望海)は、泉(咲妃)が子どもの頃からずっと晴興(早霧)を恋い慕っていたのを知っていた。源太は、晴興に、将軍の姪・貴姫(大湖 せしる)との縁談を断って、泉(咲妃)を貰ってやってくれと頼み込む。しかし晴興は、自分を取り立ててくれた将軍に報いるためにも、貴姫を貰い受け、改革に身を投じる決意を固めていたのだった。

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<ややネタバレ>

とにかく90分を余すことなく使い、物語を組み立てるための道具立て「星逢(七夕)」、「米」、「百姓一揆」の組み立てが見事で、きっちり計算されている。だた気になったのは、星を見ていた紀之介(早霧)が、星を見なくなる晴興(早霧)へと変化していく過程が簡単な説明のみで終わっており、その心情の変化が判りづらいこと。ここは物語の重要ポイントだと思うが、時間が無いためかあっさりと過ごされていた。

あとは最後にカタルシス(浄化)や希望ある先行きを用意してないこと。そのために観劇後に、悲しみや嘆きが澱のように残る。ただ1本立てだとこれが欲求不満となって蓄積する可能性があるが、今回は2本立てで、ラテン・ショー『La Esmeralda』が控えている。それを計算に入れて、そちらでの発散を期待しているのか、とも思った。

とにかく、先が見えない幕切れのために最後の夏祭りの場面は、なんとももの悲しく、悲哀と諦観の念が漂う幕切れとなった。この締めくくりは好みが分かれると思う。

しかし、旧暦7月15日は、盂蘭盆であることから、盂蘭盆祭と引っかけているのか、それも計算済みなのか、という気もして、上田作品は罪深いのである。

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いっぱい溜まっているので、キャスト別はどうしようか。

そして!燃えろ!エスメラルダ!!