[Zuka] 雪組『凱旋門』~2人のラヴィック

雪組『凱旋門-エリッヒ・マリア・レマルクの小説による-』、本公演と6/26(火)に行われてた新人公演と合わせての感想です。

【本公演】

脚本/柴田 侑宏
演出・振付/謝 珠栄
【新人公演】

演出/上田久美子

舞台は1928年のパリ。ヨーロッパでは、ドイツやイタリアにおけるファシズムの台頭により、パリには多くの亡命者が逃げ込んできていた。ドイツからパリに亡命してきている外科医ラヴィック(轟 悠)は、イタリアからの移民で、身寄りの無い、ジョアン・マヅー(真彩 希帆)と出会う。ラヴィックと女優志望で歌手のジョアンは愛し合うようになるが、亡命者であるラヴィックはパスポートや身分証明書を持たず、亡命者向けのホテルに隠れるように住み、モグリの医者として生きるしかなく、ジョアンが部屋を借りて一緒に住みたいと望んでも叶えることが出来なかった。

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2000年の雪組初演は観ておらず、原作の小説は紙版は絶版らしく、Kindle版で入手できるのですが、未読です。

初見では、どうにもラヴィックの態度が辛くて落ち着かず、ジョアンが可哀想だった。ラヴィックの生き様が痛々しくて辛く、居たたまれなかった。ラヴィック達が去った、ラストの場面でラヴィックの友人ボリス(望海風斗)が真ん中で立っていてくれるのが救いだった。ボリスがパリを覆う暗鬱を吹き飛ばすように、「いのち」を歌ってくれて嬉しかった。

「居たたまれない」このような気持ちになるのは何故かと考えていたのだが、新人公演で縣 千のラヴィックを観て、自分なりに理解できたような気がした。轟のラヴィックは心の奥深くに怒りを抱えて生きていた。人々を故郷から追い立てたファシズムの台頭する世界に怒り、それから亡命者として生きるしかない自分に、足下を見て仕事料をピンハネする大病院の医師に、恋人を殺したゲシュタポに、国外退去の不在中に他の男にすがったジョアンに、激しく怒り、無力な自分を許せず、激しく傷ついていた。

医師として人助けをしたことから、警察に尋問され、国外退去になる不幸は亡命者ゆえだ。その理不尽さに怒りを抱えるのは当然といえようが、その怒りゆえに、彼はジョアンを受け入れられなくなってしまった。

私は、平和を維持する日本という国に住む日本人であり、亡命者という存在への理解が全く足りていない。轟は亡命者ラヴィックとして舞台で生きているのだ。パスポートも身分証明書もなく、パリで幽霊として生きるしかないのは、ラヴィックの責任ではないのに、自分自身の無力さを許さず傷つく、誇り高いラヴィック。その怒りは過去に因縁があったナチス・ドイツの手先であるゲシュタポに向けられた。

縣 千のラヴィックももちろん亡命者であるが、怒りは抱えていなかった。まだ若く困難にぶち当たってはいるが、ひたむきさと情熱を持っていた。轟のラヴィックをお手本にしたのだろうが、自分に演じられるラヴィック像を作ってきていた。ジョアン(潤 花)との幸せを夢見た若き外科医ラヴィックである。セリフが時折、迷子になったり、なんやかんやと課題はあるのだが、自らの感性を信じて、役にぶつかっていた。それがとても良かった。この公演くらいから垢抜け度が増し、ハッと目を引くようになって来て、スーツも予想以上に着こなせていた。101期。初主演、おめでとうございます。

新人公演は全体的に亡命者の世界観が薄まって、ややサスペンス的な趣きになり、観る側として心が軽かった。それは新人公演ならではだと思う。作品理解と芸術性、技術・経験は本公演が新人公演を上回るのが当然なのだから。ただね、本公演の『凱旋門』は轟ラヴィックの世界観が重くて(つらいんですのよ)。

2度目の新人公演ヒロインの潤 花ちゃんは、前回に引き続き、鬘とメイクを頑張って。まずそこだと思います。あと、本役のきーちゃん(真彩)は轟理事に合わせて、年をかさ上げし、気品を出すためにファルセットで声を作っているのだと思うけれど、潤 花ちゃんは、縣 千くんが相手役なので、ファルセットにする必要があるのかと思いました。歌は、縣 千くんとデュエットするときは高低差がいるけれど、地声に近い方が歌いやすいでしょう。時折、声にひずみが混じり、気になりました(喉を傷めないように)。お芝居はアンティーブでの無邪気さや悪びれ無さが良かったです。

ジョアンは亡命ではないかもしれないけれど、移民として身寄りの無いパリで女一人で生きていかねばならず、その困難さは察するに余りあります(悪いのに引っかかると街娼です)。自分の持てる力を最大限に活用するしかない。ラヴィックは亡命者である自分に囚われていて、ジョアンの困難さを見過ごしているし、ジョアンは亡命者であるラヴィックの苦しみを知らない(教えて貰ってない。1万フラン貰う医者の代わりに手術しているのはラヴィックだよ、とか)。それでもジョアンが女優の道を捨てて、ラヴィックの所に戻ろうとするのは、アンリ(眞ノ宮 るい)がジョアンを撃つと言う危ないヤツだからなのか、ラヴィックの愛を信じたからなのか。後者だと思うのですが、脚本的にそこがよく判らないので、お芝居で見せるのが必要と思うのです。死の間際が熱演で、ジョアンのラヴィックへの愛が伝わってきました。これは本役のきーちゃんもそう。きーちゃんのジョアンは観る度に自由になっていっていると思います。

綾 凰華のボリス・モロゾフは、本役の望海風斗のボリスをお手本と目標に置いているが、役作りが違うので、そこで方向性に苦戦しているように見えた。望海のボリスは自分の出来ること出来ないことを弁えて、厳しくもあり、温かくもある、見守る人である。だからこそナレーター的ポジションで居られる。

綾ボリスは、縣ラヴィックを見守ると見えて、実は縣ラヴィックよりアグレッシブな人である。ラヴィックの状況に憤る心があり、手助けしたいし、走って行って支えたいのだが、役柄的には事態の推移を見守るしかない。そのアグレッシブさが存在感を増すのに効果的で、ジャケットにセーター、パンツというシンプルなスタイルでも華やかさを出しているけれど、何か急いた緊迫感も醸し出していた(新公の緊張?)。ボリスは静的な役にも適応する訓練かな。私はだいもんのボリスが拠り所で本公演を観ているので、贔屓目があるかもしれませんが、あやなちゃんは新人公演メンバーでは頭二つくらい抜けているので、私的には下級生扱いではないのかもしれません(書いていて気づきました)。がんばって欲しいです。

続きを書くつもりですが、2番手3番手の役以外では、シュナイダー(本役:奏乃 はると)の諏訪さき、フランソワーズ(本役:美穂 圭子)のゆめ 真音、ケート(本役:沙月 愛奈)の野々花 ひまり、が印象に残ってます。