[Zuka] 星組『ベルリン、わが愛』(1)

原田 諒作・演出の星組公演『ベルリン、わが愛』(公式)。1920年代~30年代のベルリンを舞台に、ドイツ映画、ナチス、プロパガンダという三題噺のような作品で、作り手も舞台に生きている人達も、映画を愛しているし、人を愛する事が好きなのだという事が伝わる舞台でした。ただ、本作は演出も脚本も首をかしげる箇所がそこかしこにあった。

注:今回はお堅いです。


最初にぶち当たるのは、プロパガンダとは何か、ということ。手近なところでWikipediaから引用

プロパガンダ(羅・英: propaganda)は、特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為である。

もとは、カトリック教会の宗教的な布教活動から派生した言葉のようである。”ラテン語の propagare(繁殖させる、種をまく)に由来する。”

Wikipediaに掲載されていた論文 [1]松井一洋「「真実」の情報はありうるか」、『広島経済大学研究論集』33(4)、広島経済大学、2011年、NAID 40018794715 からの引用は以下。

「プロパガンダ(propaganda)」とは、「特定の情報を際立たせるための手法」。

「特定の情報」とは、「世論に大きな影響を及ぼす政治権力や経済組織(企業)が発信(プロパガンダ,広報,広告など)する権利義務に影響を与える恐れのある情報,および,それらに関連して,個人から意図的に公共圏に放出(暴露)される情報をイメージしている」。(松井[1])

松井[1]は、「情報の伝達=メディア,意味づけ=理解(エンコーディング・ディコーディング),説得=プロパガンダ・広告,対話=広報」であるとも述べており、本来のプロパガンダとは「特定の情報」の布教活動であり、「特定の情報」の広告宣伝活動であると考えられる。

プロパガンダとは、すなわち「政治宣伝」と解釈されるのは、「特定の情報」を大衆に広く知らしめるためには権力を有する為政者が政治的な統制の下に国策として大規模に行うのが効果的であり、軍事紛争や戦争に関連して国家による大規模なプロパガンダ(情報操作と情報統制を含む)が行われた歴史的過程ゆえであろう。

軍事的なプロパガンダと宝塚歌劇団も無縁ではない。辻田真佐憲著『楽しいプロパガンダ』(イースト新書Q)によると、第二次世界大戦中、海軍軍事普及部の松島慶三は、宝塚少女歌劇に着目し、日中戦争前からペンネームを使って、数多くの軍国レビューを手がけた、とある。その内容は、劇団員に軍服を着せて軍隊に親しみや敬意を持たせるためのものや国民が自発的に「戦争」に協力したくなるように狙ったものであった。(第1章「大日本帝国の思想戦」)。

阪急文化アーカイブス[2]で検索するとポスターがありました。
ポスター 宝塚少女歌劇1934年5月大劇場レヴュウ  太平洋行進曲
ポスター 宝塚少女歌劇1934年10月大劇場レヴュウ  軍艦旗に栄光あれ
→(戦時中)ポスター 宝塚歌劇1943年1月大劇場 歌劇  航空母艦  (古橋中佐の手記に依る) 

(戦後、松島慶三の娘である松島三那子は宝塚歌劇団40期生(1953年入団)で星組所属の男役になったという)。

プロパガンダが忌避されるのは、そこに(特に軍事プロパガンダには)情報操作と情報統制 (言論統制)、表現の自由への侵犯、マインドコントロールなどが入り込んでいるからである。しかし、松井[1]が述べるように、「広告は、最も明白な形で制度化されたプロパガンダである」ことを、情報に触れる者は認識しておくことが必要であろう。


前振りが長くなった。

『ベルリン、わが愛』ではナチス・ドイツの宣伝全国指導者ゲッベルス(凪七瑠海)が、「プロパガンダのために」、新進女優ジル・クライン(綺咲愛里)を欲し、国民的女優に仕立てようと気炎を上げる場面があるが、何を目的とするプロパガンダなのか、なぜジルでなければならないのかは描かれない。ナチズムのプロパガンダであれば、「アーリア人至上主義」「反ユダヤ主義」あたりを前面に出さなければならないはずだが、ゲッベルスは、ブラウン系の髪のジルを選び、『忘れじの恋』のヒロインを務めた、金髪のレーニ(音波みのり)をスルーする。ゲッベルスは何を宣伝したいのかな。

それから、本作はナチスに関する時系列が、史実と異なっている。舞台は1927年のフリッツ・ラング監督(十碧れいや)が制作した映画『メトロポリス』のワールドプレミアで始まるが、その時点でゲッベルスはマクダ夫人(白妙なつ)を伴っている。史実ではマクダ夫人と結婚したのは1931年。次にゲッベルスが作中で登場するのは、ウーファ社が『メトロポリス』の大赤字を少しでも回収するために社の命運をかけて制作したテオ・ベーグマン(紅ゆずる)監督の『忘れじの恋』完成試写会で、この時はナチス宣伝全国指導者という肩書きがついている。史実では、このナチ党の全国指導部の宣伝全国指導者になったのが1931年。ナチス・ドイツの宣伝大臣に就任したのは1933年である。

史実では映画会社ウーファが実業家のアルフレート・フーゲンベルク(壱城 あずさ)に買収されたのは1927年。作中では『忘れじの恋』の試写会後だから、1931年くらい??『忘れじの恋』の制作に何年かかっているのだろう。

どう考えても、『ベルリン、わが愛』の時系列は史実と異なるよね。それともナチスの時系列だけ改変されているのかな。

時系列が史実通りではないと気づいてから、物語をどう見ればいいのか戸惑いが大きくなる。

史実を題材にしているとは言え、フィクションだから、史実と時系列が異なっても一向に構わない。

しかし、改変歴史物はなんでもありだ。作中ではナチスの方針がユダヤ人排斥らしいことは判るが、ホロコーストまで起こす設定なのか、観る側には判らない。現在の私達が知っているドイツなのか、パラレルワールド的な設定のドイツなのか。

作中でゲッベルスのいう、「強く偉大なドイツ」とユダヤ人排斥はどう結びつくのか。「ユダヤ人の書いた書物など火にくべろ」とゲッベルスによる焚書が行われたのは1933年だが、作中では『忘れじの恋』の試写会から間もなくっぽい。

レーニにユダヤ人であることを密告されたジル。ゲッベルスはフーゲンベルクからそのことを知らされながら、「ジル・クラインは我が国の映画に不可欠な人材だ」と庇う。そしてジルを自分の自宅に呼び出したゲッベルスは、「ナチスの宣伝大臣」を名乗り(しつこいけれど宣伝大臣着任は1933年)、セクハラに及ぼうとするのだが…。何のプロパガンダをしたいのだろう、ゲッベルスさん。

作中ではゲッベルスがナチスの思想を代表すべきなのだが、思想の時間的流れ、時系列、歴史観が不明朗であり、ゲッベルスは映画オタクで好みの女優を見つけてあっさりと翻意しちゃったよ。世界観が崩壊している。→ナチスの思想を代表していたのは金髪のフーゲンベルクとレーニだった。

『ベルリン、わが愛』で信じられる世界観は、映画への愛と情熱。テオやエーリッヒ(礼真琴)、プロデューサーのカウフマン(七海ひろき)達が、希望と勇気を持てる夢をシネマで描きたい、自分達の映画を自由に作りたいと物を創る人間のプライドを持って「俺たちの映画」を歌い上げる、その姿。

それから作品の冒頭で「私は舞台で戦い続けたいの。たった1人の黒人として」と誇り高く人種差別との戦いを宣言するジョゼフィン・ベーカー(夏樹れい)の姿。

その姿は表現の自由に政治介入を図ろうとするゲッベルスへのアンチテーゼとなる。

残念ながら、「暗闇を貫き照らすのは、ただ愛のみ」はゲッベルスへのアンチテーゼにはならない。だってねええ、ゲッベルスさんかなり愛の深い人でしたよ。ジルがユダヤ人であることを目をつぶって国民的女優の道をバックアップしようとしたわけでしょう。映画への愛、女性への愛は持ち得ていた。それが単なる性的嫌がらせ(スケベオヤジ)にしか見えない描き方がもったいなかった。凪七瑠海はよく演じきったと思う。

観客は白い役にも黒い役にも、「きっと何か考えがあるんだ」という夢を見たい。そんな気持ちになりました。

細かいことを言い出すとキリがないね。

ただね、七海ひろきのスケールにニコラス・カウフマンという役は、役不足だった。けれど立ち姿だけで人となりを表現する、膨らませる、そういう難しさはある役にはなったのかなと思う。