[Zuka] 2015年雪組『アル・カポネースカーフェイスに秘められた真実ー』ネタバレ解読

[Zuka] 2015年雪組『アル・カポネースカーフェイスに秘められた真実ー』ネタバレ感想(5/17)

意を決して書いたついでに気になるところを全部書いておきます。

一応、書いておくと、私は原田諒氏の作品は、歴史的な出来事や歴史上の人物を取り上げて、自分なりの評価を加えて描きたいという意欲が感じられるので、興味深く見ています。宝塚歌劇の演出家の中では大野 拓史氏もそういうジャンルを好んで描かれているけれど、原田諒氏のほうがよりドキュメンタリー的な取り上げ方ですね。

あ、先週の記事で間違いを指摘してくださった方がいらっしゃいました。ありがとうございます。<(_ _)>

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また書きすぎた。それだけ言うんだったら、自分でやってみろとブーメランが返ってくるのも判っているので、あまり、こういうツッコミ系のは書きたくないのが本音なんですが、我慢ができず…。

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『アル・カポネ』だけではないのだが、原田氏の作品で気になっているところは、人物像の造形の弱さ。エピソードを詰め詰めにしていけば物語になるわけではないのと同じで、「起きた出来事」をいくつ重ねても、書きたい人物像は描けない。

『アル・カポネ』を例に取ると、登場時点でアル・カポネ(望海風斗)は、ニューヨークのブルックリンに住むまだ若くて貧しく、クラブでバーテンダーの仕事をしている好青年だ。彼はパンをかっぱらった少年を庇って、1週間分の稼ぎがパーになるのに、今まで少年が盗んだパンの代金を全てパン屋に支払う。そしてマフィアの大物であるジョニー・トーリオ(夏美)が連れてきたメアリー(大湖せしる)を雇うのを渋る店長フランキー・イェール (久城 あす)を説得して、メアリーを雇い、借金を取りに来たマフィア達から守って、左頬に大きな傷を負う。

そうしてアル・カポネはメアリーと共にささやかな家庭を持ち、堅気で仕事をして稼ぎたいという夢を諦めて、マフィアの道に入る。

シカゴではボスの裏切りやマフィア同士の抗争を経て、ギャング団シカゴ・アウトフィットの首領になる。ここまでのアル・カポネはマフィアの道に入ったものの、メアリーとの間は円満で子どももでき、ファミリーの絆と信義を大切にしている。

この「若きアル・カポネが成功するまで」を、アトランティック刑務所内に収監されているアル・カポネ(望海風斗)は、脚本家のベン・ヘクト(永久輝せあ)に語る。どうみてもアル・カポネをモデルにした映画の内容にケチをつけていて、冷静に考えると誘拐と脅迫なのだが、だいもん(望海)のアル・カポネが格好良すぎてそんなことを忘れる(笑)。結局、ヘクト(永久輝)はアル・カポネに心酔し、映画のラストに改変を加える。

ここでは、ヘクトが、アル・カポネのどこに心酔したのかが描かれていない。アル・カポネの話のほとんどは、殺人や密造酒を巡る裏切りに市民を巻き込んだ銃撃戦で、ギャング同士の抗争である。アル・カポネが市民を傷つけまいとしたと言っても、それはアル・カポネが話したことで、事実かどうかも判らない。ヘクトはアル・カポネの一方的な話にふんふんと頷いて、会話らしい会話はない。

アル・カポネは人間的魅力をたたえ、あった者を虜にするカリスマ的なギャングスターだったということなら、ヘクトの人柄が判るような描き方をし、ヘクトが魅了されるほどの人物だったというほうが盛り上がるのではないか。単に、だいもんの格好良さに惚れました、という解釈でいいのだろうか(いや、マジで格好良かったですけど!)。

それでもここで舞台が終わっていたら、まだ「若きアル・カポネが成功するまで」を描いた作品としてかなりの良作になっていたはずだ。

観客として、私は、ヘクトが退場した時点で一つのストーリーが終わったと感じた。ここで起承転結がひとつ終わったのだ。

そして第2幕の途中から始まった「”暗黒街の帝王”であるドン・カポネの生き様」は、捜査官エリオット・ネス(月城かなと)とカポネの再会が「起」で、また新たなストーリーが始まったと感じた(以降が、前回に書いた「起転転結」のこと)。

新たなストーリーではあるが、続いているはずである。だが、1幕の冒頭でささやかな幸せを望んでいたアル・カポネが、どこで「裏から手を回して法律も変える、政治も操ってやる」と弁護士オヘア(久城あす)に語るような壮大な野望に燃えるドン・カポネになってしまったのか判らず、戸惑う。若き日のどのエピソードがアル・カポネを変えたのだろう。それが判らない。どのエピソードも同じ比重で描かれ、アル・カポネの考え方が変化した道筋が描かれていないためだ。

望海風斗は、その辺りを全て飲み込んで見事に青年アル・カポネとドン・カポネを演じ分けていたが、それは「演じ分け」で、同じ人物が年を経て変化したんだという風には受け取れなかった(だいもんの中では整合性がついているのだとしても)。これは脚本の弱さを、キャストがねじ伏せたと言うことだ。

ギャングのドンが人情家であって、愛妻家であったという「光と影」を描きたいならば、「若きアル・カポネが成功するまで」のエピソードは最小限にして、ネス(月城)がドン・カポネの自宅を訪れた時に見た、ドン・カポネとメアリー、息子ソニー(有沙 瞳)の関係や団らんを描くとか、ネスと妻エドナ(透水 さらさ)とカポネ夫妻との交流を描くとか、そんな感じで良いと思うのだ。

カポネの妻メアリーにしても登場時はどうみても良家のお嬢さんで、父親が亡くなって借金返済のために零落したという風情なのに、クラブで雇われた瞬間にダルマ姿で歌って踊り出すのはおかしくないか、とか。人間は矛盾した生き物で、時にはちぐはぐな行動も取るけれども、基本的には形成された性格から生み出される行動パターンがあり、社会的に学習した規律を守って生きている。そこに変化が起きるから、物語があるわけで、だから描きたい人物像の造形って大事だと思う。

「起きた出来事」を詰め込むのではなく、数を減らして、描きたい人物像に合わせてエピソードのひとつひとつを膨らませる。ストーリーに変化をつけて山場を作って物語にする。観客にも登場人物の考え方の変化や気持ちの変化が伝わるようにすると、「セリフで説明して終わり」とか言われないと思うのだ。

瑕疵のないフィクションなど、無いから、そこは問題じゃない。でも、もっと良くなるはずで、ほんと、もったいないわけです。モッタイナイお化け。

書きすぎて反省する。単なる感想です。はい。疲れたので終わり。

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