ピーター・ウェーバー監督の『終戦のエンペラー』を観てきました。史実をもとにフィクションを交えて、「”自らと異なるもの”を理解することはできるのか」をテーマにし、終戦後の日本が、今後、国として、どのような道を歩んでいこうとしたか描いた佳作でした。【終戦のエンペラー 公式サイト】
原作はノンフィクション『終戦のエンペラー 陛下をお救いなさいまし』(岡本 嗣郎、集英社文庫)である。>本作で目新しいのは、連合国軍最高司令官マッカーサーの副官ボナー・フェラーズ准将と恵泉女学園の創立者である河合道との関係を描いたところだ。フェラーズは、日本国の戦争責任者を調査し、天皇不起訴を進言する覚書を提出したという人物で、河井道は日本国民が天皇に抱いている敬意や思慕の念をフェラーズに説明し、覚書の作成に大きな影響を与えたという女性である。 映画は、原作(史実)を元に脚色が加えられ、フェラーズ(マシュー・フォックス)と河井道をモデルにした日本人女性アヤ(初音映莉子)とのラブロマンスが挿入されている。アメリカ・ハリウッド映画だが、プロデューサーは奈良橋陽子、監督は、ピーター・ウェーバー。 |
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ソクーロフの『太陽』、イーストウッド『硫黄島からの手紙』、そして『終戦のエンペラー』
ボナー・フェラーズ准将は、連合国軍最高司令官マッカーサー(トミー・リー・ジョーンズ)の軍事秘書官として、ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を選んだ日本にやって来た。連合国最高司令官総司令部の仕事は、ポツダム宣言の執行-戦争責任者の処罰と日本国の民主主義化と再建である。
フェラーズは、マッカーサーから10日間のうちに、「日本国の最高責任者」である昭和天皇の戦争責任について調査し、報告するように命じられる。「天皇を裁判で戦犯として裁くか、否か」。重い任務を受けたフェラーズは、政府の重要人物の調査と同時に、自分に日本のことを教えてくれた女性の捜索を始める。
観ながら、2006年に日本で公開されたロシア・イタリア・フランス・スイス合作映画『太陽』(アレクサンドル・ソクーロフ監督)を、思い出した。
※『太陽』は、終戦直前・直後の昭和天皇(イッセー尾形)が主人公で、東京が一面焼け野原になった場面や御前会議の様子などのほかに、香淳皇后(桃井かおり)や家族との繋がりも描き、昭和天皇の人となりを感じさせる(フィクションだけど)佳作である。制作当時は、日本公開は絶望視されていたという”問題作”だった。今はDVDもちゃんと販売されている。(『太陽』あらすじ via KINENOTE )
両方とも日本人俳優の一流どころが主役級でバンバン出ているのに(桃井かおりさんは両方に出演)、監督は、『終戦のラストエンペラー』(2012)がアメリカ人で、『太陽』(2005)はロシア人。それから、『硫黄島からの手紙』(クリント・イーストウッド監督:2006)もアメリカ。太平洋戦争(第二次世界大戦)の日本を扱った映画は、他国で制作されたものの方が良作が多い気がする。※ここにもそんなことが書いてあった→【米国が創ったからこそ客観的に見られるのかもしれない 『硫黄島からの手紙』 All About 今観るべき、太平洋戦争映画 2007年08月09日】
これらの作品で共通しているのは、「戦争」を描くのではなく、「人間」を描こうとしているところだと思う。人間は矛盾の塊で、優しい・親切と言われる人でも、自分の信じるもののためなら、エゴの権化みたいになれる。そういう人間の抱える矛盾をストレートに描き出せるのが、様々な利害がぶつかり合う、「戦後」の場面なのかもしれない。
戦争責任とラブロマンス
『終戦のエンペラー』の前半ではフェラーズが、昭和天皇の戦争責任を調べるために、東条英機(火野正平)、近衛文麿(中村雅俊)などの内閣総理大臣経験者、木戸幸一(伊武雅刀)や関屋貞三郎(夏八木勲)らと面談を行う。フェラーズの質問は、「天皇は、真珠湾攻撃を指示(許可)したのか」に絞られている。本作は戦勝国アメリカと敗戦国日本の関係に限定した描き方をしており、「戦争責任」とはすなわち対米関係のみの責任を問うものだということが判る。
この理性的ではあるが、二項対立的な対話では、天皇を有罪とする確固たる証拠は得られず、フェラーズが得たのは、天皇が開戦に消極的な態度だったという関屋貞三郎の意見と、無条件降伏を受諾することを決断して、大臣達の反対を押し切ったのは、天皇自身であったという木戸幸一の証言であった。天皇に戦争責任があるとも、ないとも言えない。フェラーズは壁に突き当たる。
そうした時にフェラーズが思い出すのが、アヤのことである。フェラーズは、米国に留学に来ていたアヤと出会い、恋に落ちるが、アヤは日本に帰国してしまう。フェラーズは、日本までアヤを探しに来る。戦争が始まり二人はまた別れてしまうが、終戦後、連合国軍として来日したフェラーズはまたアヤを探し始める。
米国人フェラーズと日本人女性アヤとの関係は、敵と味方、正義と悪、勝者と敗者、そんな二項対立的な価値観を軽々と乗り越えてしまう。戦争は、人間性を否定する行為だが、その戦時にも関わらず、この”愛は地球を救う”的なノリが、ハリウッド映画だなぁと思うと同時に、「あの戦争の中でも、こんな人間性が存在し得たとしたら、救われる」という思いを抱いた。こんな一途な恋愛は、「同じ人間だ」という対等の意識があって初めて成り立つ、と思うんだよね。
米国人には、日本人が、「自決を名誉」とし、「天皇のためなら喜んで死んでいく」ということが理解できない。日本人を恋人に持ち、焼け野原となった東京を歩き、居酒屋で日本人と同じものを食べようとするフェラーズにも判らない。
フェラーズは思い出す。5年前来日したとき、アヤの叔父の鹿島大将(西田敏行)に会って言われたことを。鹿島大将は、姪のアヤが連れてきた米国人フェラーズが、日本人兵士の心理に関する論文を書いていると聞いて、言う。「日本人はただ一つの価値観を共有している。”無私の精神で滅私奉公”があるから日本は強い*」。
アヤは、日本国民は天皇に尊敬と愛情の念を抱いていると言っていた。フェラーズは、アヤの安否を確かめるため、鹿島大将のもとを一人で訪ねていく。フェラーズと再会した鹿島大将は、開戦前の自信たっぷりの表情とは異なり、疲れ切った様子で、呟く。「我々は人間性を失っていた。熱に浮かされていたのだ。日本人はただ一つの価値観を共有している。そのために献身的にもなれば、征服や略奪も行える*」。*(セリフは不正確)
フェラーズは、この戦争は誰の責任か、という問題より、日本人全体を覆う強い悔悟の念を悟り、マッカーサーへの報告書を書き直す。天皇は終戦に寄与したが、戦争責任については不明という報告を受けたマッカーサーは、昭和天皇( 片岡孝太郎)との会談を決行する。そして、会談の場で昭和天皇が発した覚悟の言葉は、マッカーサーの決断を促したのだった。
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この映画は戦後68年が経過した今だから、良いのだと思う。世代交代が進んでいるのに、憎しみとわだかまりを、次世代に残していくのか、と思わされる。フェラーズが、”自らと異なるもの”を理解しようとして、必死であえぐ姿に感銘を受けた。
ストーリーに細かい疑問点もあるし、もう少しラブロマンス成分を減らしても良いような気がしたが、それ以外は熱中して観た。理性的に考えても、最終的に決断を促すのは感情かもしれないなぁとか、人はどこまで感情を殺すことができるのだろうかとか、埒もないことをごちゃごちゃ考えた。
※この映画はあくまでもフィクションです。【公式サイト→歴史的事実の忠実な再現の上に組み立てられたフィクション】
2013.07.18 Thu SYNODOS 『終戦のエンペラー』 ―― 勝者と敗者の壁をこえるために(片山杜秀×小菅信子)
2013年07月27日 毎日新聞 終戦のエンペラー:製作・奈良橋陽子さんに聞く「日本の歴史変えた無名の米国人の存在に驚いた」
終戦のエンペラー 陛下をお救いなさいまし (集英社文庫) 岡本 嗣郎 集英社 2013-05-17 by G-Tools |