KERA・MAP #008
「修道女たち」
作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
2018年11月23日(金)17:30公演
兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホール
先日、脚本家・演出家としての功績を認められ紫綬褒章を受章されたケラリーノ・サンドロヴィッチ氏の作品。
「シュールレアリズムやマジックリアリズム、或いは不条理劇」とフライヤーに記載があり、それだけの知識での観劇。どんな作品も観る側にも個人差があるので感想は人それぞれあるだろうが、不条理への反応というのは、より一層ばらつく気がするので、個人的な感想です念為。
『修道女たち』は、宗教画をカリカチュアライズしたような小さな世界。厳かでありながらも、奇異であり、可怪しくもあり、真摯でもあり、日常的でありながら非日常。不可思議な味わいのストレートプレイでした。★ネタバレあり★
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ヨーロッパを思わせる山の麓に建つ山荘。毎年、寒さの厳しい時期に修道女たちがこの山荘を訪れ、村を廻り、巡礼の儀式を行う。この儀式は、自分の命と引き換えに村の長老を救った聖女アナコラーダの奇跡から始まったものだ。
主ダズネ様、聖女アナコラーダ様を祀る修道女たち6人は昨年の記念撮影写真を見ながら話に興じる。写真撮影は高額なので、しっかり者のシスター・ノイ(犬山イヌコ)は反対し、今年の記念撮影は取りやめに。修道院長のシスター・マーロウ(伊勢志摩)はあったほうがいいんじゃないと言い、でも○○もするんですよ!という会話が繰り広げられるうちに、言葉の端々から恐ろしい事実がこぼれ始める。
去年の記念撮影には47人いた修道女たちが、今年は6人。うち2人は2か月と少し前に修道女の誓願をたてたばかり。「中庭」、「シスターが眠っている」。
一体何があったのか。
去年の聖・船出祭で村人から貰ったワインに毒が入っていて。
苦しんで苦しんで生き残ったのが4人。修道院長となったシスター・マーロウ(伊勢志摩)、シスター・ノイ(犬山イヌコ)、シスター・アニドーラ(松永玲子)、シスター・ニンニ(緒川たまき)。
2ヶ月前に誓願を立てたばかりのシスター・ダル(高橋ひとみ)とシスター・ソラーニ(伊藤梨沙子)は母娘。いくつかの宗教を経て主ダズネの修道女となった。
国王の命令で主ダズネを信奉する宗教は迫害されていた。
修道女たちの収入はシスター・ダルのお布施のみになっており生活は窮乏している。それでも修道女たちは今年もお勤めである巡礼のために村にやってきたのだ。
数少ない訪問者が来るたびに修道女たちを取り巻く状況が明らかになっていく。
妹シスター・グリンダの遺品を持って来訪した兄テンダロ(みのすけ)は妹のお墓よりもシスター・ジュリエッタのお墓を見舞う。密通の噂はあったが、シスター・ジュリエッタはお墓の中である。
亡くなったシスター・グリンダが亡霊として現れてシスター・アニドーラとの秘められた2人の恋が語られる。
祖母と2人で暮らす村娘のオーネジー(鈴木杏)は一途で純真で、優しいシスター・ニンニとは親友。オーネジーはシスター・ニンニのためなら何でもする。修道女になりたがるオーネジー。
オーネジーを大事に見守る幼馴染で帰還兵のテオ(鈴木浩介)。村男のドルフ(みのすけ)へのオーネジーの突拍子もない所業を自分が引き受けようとし、修道女たちからは距離を置いている。そのためこの山荘でテオは他から浮いているが、シスター・ダルとシスター・ソラーニの母娘はテオを好く。
右腕を虫に刺されて痒がってかきむしっていたテオは、そこから木の芽が芽吹いているのに気づき、慌てふためく。
修道院長シスター・マーロウとシスター・ノイはシスター・グリンダの遺品を埋めるために山荘の外に出てカマを持った死神に出会う。
シスター・ダルとシスター・ソラーニの親子喧嘩の末に暖炉に放り込まれたネックレスを取り戻そうとしたシスター・ダルは顔に大やけどを負う。
たった6人の修道女と訪問者達の思惑はバラバラでどこに行き着くのかわからない。
山荘の部屋の中に死神が現れて消える。
空いた時間は木を彫って「魂の汽車」を作るのに勤しむ修道女たち。
ヒタヒタと何かが近づいている。
夜中に村人が山荘に押し寄せる。
保安官ドルフ(みのすけ)が駆けつけ、修道女たちは事なきを得る。
保安官ドルフは語る「村人たちは修道女様たちが、”大好き”」。
修道女は、保安官から国王の決定で村が焼き討ちされることを聞かされる。
村人から貰ったイチヂク入りのパンをかじったと思しきネズミが大量に死んでいる。国王による村の焼き討ちを恐れた村人の仕業では。
シスター・ダルの顔に巻かれた包帯の中にネズミが入りこむ。
ネズミが部屋を走り回る。
ややホラー。
急転。シスター・ダルの顔の火傷がきれいに治る。100年前の奇跡が再び。母のために一心不乱に主ダズネ様、聖女アナコラーダ様に祈っていたシスター・ソラーニが聞き届けられたのか。
ところがテオの右腕は皮膚を樹肌が覆い、完全に枝となってしまう。孤独が深まった人間の心と体を食い尽くし、木になってしまう病気なのだという。
村人からワインが寄贈される。
旅立ちの準備をしていた修道女たち。オーネジーも同行する気満々である。
シスター・ノイは言う。
「私はこのワインを飲もうと思います」。
「え、飲むんですか?」
毒入りワインかもしれないのにと驚くシスター・マーロウに「全ては神様の思し召しです」と答えるシスター・ノイ。
シスター・マーロウを残して、オーネジーまでもがワインを飲むといい、シスター・マーロウも飲む決意をする。ワインを飲んで山荘を出る修道女たちとオーネジー。
全身が木と化したテオだけが山荘に残され、そしてカタルシスが訪れる。
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私にとってマジック・リアリズムといえば、『百年の孤独』(ガルシア=マルケス)の衝撃であるのだが、「修道女たち」はちょっと様相が異なっている気がして、マジック・リアリズムを日常の中に魔術が潜み、生活の中に不可思議が息づく世界であると考えれば、本作も当てはまるのだが、えーっと?と思い、このあたりはパンフレットに豊崎由美さん(ライター、書評家)が同ジャンルの作品を引きながら熱烈な解説を寄せていて、難しい部分を飛ばすと(ごめんなさい)、「あったことがあったのよ」的世界とまとめている。
そうか、マジック・リアリズムは「あったことがあった」ので、不思議でもあったんだからしゃーないよねってか。そういう世界ですか。
ただ個人的には本作で起きた不可思議な出来事は、マジック(魔法)というよりも”奇跡”に近いものを感じる。見えない何ものかが起こした超自然的なできごと。できごとを起こしたもの=”神”に作為はなく、ただ人の祈りに応えただけ。
何かが起きると一心不乱に祭壇に向かって祈る修道女たち。誰かのことを思ってただひたすら祈る、神に仕える者たちが祈る。たった2ヶ月前に誓願をたてたばかりのシスター・ソラーニ。その祈りが届いたか、シスター・ダルの顔の火傷はきれいに治る。その姿は宗教と呼ばれるものの善なる部分であり、その結果、起きた出来事も「神様の思し召し」と祝福される。
その一方で、「神様、なぜこんなことをするのか教えてください。本当にいらっしゃるなら」という問いかけがなされる。修道女たちを弾圧するのは国王であるが、彼女たちは国王に問いかけずに神に尋ねるのである。
「全ては神様の思し召し」
その圧倒的なる善。無垢と残酷。
修道女たちとは距離を置いていたテオは木になってしまった。オーネジーからも見捨てられ、話すことも出来ず、長い時を生きていくことになる。
彼は戦場で、どうしてもオーネジーに会いたくて、仲間を殺して村に帰還したのだ。誰にも話せないその孤独が彼を蝕んだのだろうか。
因果応報というにはあまりに残酷で、だがその木になったテオの姿は滑稽でもあり、ラストにやってきた不条理に私は困惑したのだった。
修道女たちは誰が殺したのか。
彼女たちが選んだ道は、生贄なのか殉教なのか自死なのか。
魂の救済はあっても、その死の報いは誰が受けるのか。
わからないままに幕は降りた。だが、宗教が内包する本質の一部を見た気になったのも確かで、私は呆然としたまま帰途に着いたのだった。
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解説&ストーリー:ケラリーノ・サンドロヴィッチ(チラシより)
宗教とは無縁な私が聖職者の物語を描きたいと欲するのは何故なのだろう。理由はいくつでも挙げられる。
第一に、禁欲的であらねばならぬというのが魅力的。奔放不覊な人間を描くよりずっと面白い。「やっちゃいけないことばかり」というシチュエーションは、コントにもシットコムにももってこいだ。
第二に、宗教的モチーフが、シュールレアリズムやマジックリアリズム、或いは不条理劇と非常に相性がよい。不思議なことがいくら起こっても、「なるほど、神様関係のお話だからな」と思ってもらえる。
時間が無くて二つしか思い浮かばなかったが、かつて神父を登場人物にした舞台をいくつか描いてきた私が、満を持して修道女の世界に挑む。しかも複数だ。修道女の群像劇である。どんなテイストのどんなお話になるかは神のみぞ知る。ご期待ください。
<作・演出>ケラリーノ・サンドロヴィッチ
<出演>鈴木杏 緒川たまき 鈴木浩介 伊勢志摩 伊藤梨沙子 松永玲子
みのすけ 犬山イヌコ 高橋ひとみ
<声の出演>林原めぐみ