『オイディプス王』は、8月23日(日)に千秋楽を迎えました。スカイステージの放送を見たら、お芝居が濃くなってましたね。
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([ZUKA] 2015年専科『オイディプス王』(1)続き)★ネタバレ編
前王ライオスを殺害した犯人を捜し求めるオイディプス王(轟 悠)に、前王ライオスの妃でもあったイオカステ(凪七 瑠海)は、ライオスは自分の子どもの手にかかって殺されるという神託が下ったが、実際はポキスと呼ばれる土地の三筋の道が合わさるところで、他国の盗賊どもの手にかかって落命したと話し、神々の予言の頼りなさを指摘する。
だがオイディプス王は思い出していた。かつてコリントスの王の息子として市民の中で最高の地位にあったとき、デルポイの神託が、「母親と交わり、父親の殺害者となるであろう」と告げたことを。
ここからオイディプス王の故郷であるコリントスの使者(悠真 倫)が現れ、オイディプス王の出生の秘密を明らかにし、続いて羊飼い(沙央 くらま)がその使者の言葉を裏付ける。そしてオイディプスは、テーバイの都に災厄をもたらしている罪人が自分自身である事を悟ると、その呪いで我が身を罰した。
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『オイディプス王』はとにかく舞台装置が動かない。王の館に通じる石造りの階段を正面に据え、階段下にはコロスの長(夏美 よう)とコロス達がかしずき、巫女(憧花 ゆりの)が佇んでいる。背景は90分間、この状態がずっと続き、正面にすくっと立つオイディプス王(轟)のもとに、証言者達が出入りする。この演出のシンプルさはギリシャ劇を模したのか?シンプルで判りやすい反面、単調に陥りがちな所を、轟悠をはじめとする専科+月組上級生の演技がメリハリをつけていたが、やはり轟理事の演技は出色であった。
轟悠はオイディプス王の苛烈な性格と強固な意志の力、知性への自信を漲らせて登場する。テーバイの市民にとってオイディプス王は、前王亡き後の混乱する都を襲ったスフィンクスを退けた知恵者であり、英雄である。オイディプス自身もそのように自負しているであろうことが、その声の力強さ、全身にみなぎる気力からも伝わってくる。
だが、オイディプス王は、真実が明らかになった時に、その気性によって自ら選んで明らかにした不幸を真っ正面から引き受け、己を罰するため両目を潰し、国を捨てて物乞いとなり、諸国を放浪する道を選ぶ。
轟オイディプスは、スフィンクスを退けた知の力も、ライオス王を殺害した罪人を明らかにした知の力も、その気性によって自ら選んで出現させたものであり、知の力であろうと、恐るべき不幸であろうと、自らが選び取った事を自覚していた。
轟オイディプスは自らが尽き潰した両の眼からおびただしい血を流しながら、人々の前に姿を現し叫ぶ。
「これぞ、オイディプス!」
報せの男(光月 るう)は、王は「わしが自ら犯してきたもろもろの罪業も、見てくれるな!」と叫び、両の眼を潰したと報告したが、その悲痛さとは打って変わって、その叫びはなぜか誇らしさすら潜ませ、己を貫き通そうとするオイディプスの矜持を見せつけられる。
そもそもオイディプスの罪とはなんだったのか。
ライオスとイオカステの間に生まれた事か。コリントスの養父母に仇なすのを恐れコリントスを出立した事か。ポキスの三筋の道が合わさるところでオイディプスを襲った者達を殺してしまった事か。テーバイを襲ったスフィンクスを退けた事か。そして請われて王の座に就き、前王の妃を娶った事か。テーバイの都の災厄を晴らそうとして前王の殺害犯を探し出そうとした事か。真実を明らかにする事にこだわり、イオカステを追い詰めた事か。
現代的な視点で見ると殺人は大罪であるが、さすがに古典で、殺人そのものというよりも「親殺し」に力点が置かれており(馬車に乗っていた4人を殺している)、親を殺め、近親相姦を行った事を咎めている。オイディプスの罪はそのどちらも本人は知らずして犯したものであり、彼自身も赤子の頃に母親によって殺されかけているにも関わらず、罪は罪として本人に返るという因果応報の思想で成り立っている。
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原作では、クレオンは追放直前のオイディプスに二人の娘達を放すように言い、「この子らを、わしから奪らないでくれ!」と請うオイディプスに対し、クレオンは「何もかも、思い通りにしようと望んではならぬ」と、クレオンがオイディプスを導いて歩み去る。
だが本公演では、クレオン(華形ひかる)とテーバイの民はオイディプスを赦し、オイディプスは娘二人と行くことを許され、娘達に手を引かれてテーバイの都を去る。そして彼はその生涯の終わりに神々の神殿に迎えられたという。
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小柳脚色は、最後の最後で、オイディプスに娘を伴うことを許し、彼に僅かな救いをもたらす。僅かでもこの救いは、ギリシャ悲劇のどうしようもないパラドックスの解釈に悩む観る側の気持ちを上向きにした。そして「神々の神殿に迎えられた」というのはギリシャ劇らしい余韻をもたらす。終演後には、わだかまりが残らないのが小柳作品を私が愛好する理由だと思う。
(娘二人はこの先どうなるのかという疑問は『アンティゴネ』という別作品を読めば判る事になっている)。
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キャストでは、やはり凪七瑠海のイオカステが目を引いた。かつては息子を殺そうとし、知らずとは言え生きのびた息子の妻となったイオカステはこの作品の要である。
凪七瑠海のイオカステは、スラリとした細身の体に肩と腕を出したロングドレスが素晴らしく似合っているが、素早い身のこなしと男役の厚みのある声音が、生々しさを打ち消す効果を上げ、誇り高い一人の女性であることを印象づけた。そしてオイディプス王より年上であり、王と権限を分かち合い、支え合う妃であることを、男役13年の経験を存分に活かした威厳と懐の深さで示し、このイオカステでさえ止められなかった事態の深刻さを感じ取らせた。
ほか、コリントスの使者(悠真 倫)のとぼけた味わいや羊飼い(沙央 くらま)の実直さが、「悪意を持った者の不在が招いた悲劇のパラドックスを際立たせた。